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自分を偽るということ

 自分を偽るということは自分を否定するということ。うそで固めた上っ面を見せても、他人とは深く関われない。そんなこと、わかっている。けど、やめられない。

 おれは4流大学の出のくせして大学院に進んだ。それも、世間では2流くらいの評価は受けている有名大学の院だ。だから、おれははっきり言って自分の経歴がはずかしい。まわりの人間には素直に自分の経歴を言えないでいる。

 おれの卒業した大学は4流、5流大学のなかでもとくにバカにされやすい。近所に有名大学があり、そこと比べられるからだ。だからうちの学生はコンプレックスを抱えているやつが多い。そうやって、ベコベコとハンマーでプライドをへこまされていくのだ。

 おれは今の大学では研究の息抜きにサークルにも入っている。そこでも自分が4流大学出身だということを明かせずにいる。だからそういう話題が持ち上がったときは適当にごまかすか、「大学も同じ」とうそをつく。素直に明かしたらバカにされるんじゃないかと思ってこわいからだ。

 サークルの学部生と話していても上っ面な話しかできない。趣味のサークルだから趣味の話をすればいいんだが、年中趣味の話だけというわけにはいかない。ときにはプライベートな話だってする。そういう時に自分の過去について話せないと会話の幅がせまくなる。

 たとえばそこの大学固有の話ができない。そこの学部を卒業した院生という「設定」なら、学部生は先輩に大学生活のアドバイスなどを聞きたいと思うだろうが、おれにはそういう話ができない。一般教養科目の話、学部の話、ゼミの話、全部できない。だから、学部生と話をするときはなるべく「そこの大学固有」の話はさけている。そうなると、薄っぺらい一般論しか話せなくなり、会話は弾まない。

 ただでさえ院からサークルに入ってきた見ず知らずの「先輩」だ。むこうも気を遣う。そのくせなにかと隠し事の多いのでは相手だって困る。現におれはサークルではうまく溶け込めていない。先輩ヅラだけはしないように気をつけているが、よそよそしさはなくならない。会話の中で常に「地雷」を抱えているのだから、当然だ。

 この大学に来てもう2年目になる。いまだにおれはこの大学では「よそ者」だ。この土地にうまく馴染めず、白く浮かびあがっているような感じがする。それは、おれが嘘で塗り固めた顔をしているからだ。

 結局、気兼ねすることなく話せるのはおれの過去を知っている地元の友達や学部時代の友達だけだ。本当にわかりあえる相手とは、お互いの過去を全て語り明かせる人ではないだろうか。

 もちろん隠し事をするなということじゃない。親や友達にも話せない秘密のひとつやふたつ誰にだってある。だけど、それは子供のころにお菓子を万引きしたことがあるとか、好きな女の子のリコーダーをなめたことがあるとか、そういうレベルの単発的な出来事だ。それは別に隠しておいても「自分を偽った」感じはしないだろう。

 そうではなくて、もっと大きな出来事、それこそ「どこそこの大学に行った」という経歴の話は人生の中の数年を費やしているのだからその人間を語るうえで欠かすことはできない。そのレベルの出来事まで隠してしまったら、それはもう「偽り」となる。

 つまり、どこまでの隠し事なら許せるかということで、おれは大学を隠すことが許せないことだと思っていながら隠してしまっている。だから、つらいのだ。

 これは、いわゆる「学歴ロンダリング」という世間の風潮のせいでもある。学部よりいいところの大学の院に進むとそう言われることがある。とくに4流、5流の大学から行くとそう言われやすい。学部に比べて院は入りやすいという理由からだ。

 だけど、こんなのはチャンチャラおかしい。学部の入試と院の入試とをくらべることなんてできないはずだ。学部は高校までの勉強のできを測るのに対して、院は大学の勉強のできを測る。つまり研究能力の有る無しを測るわけで、そもそも学部とは問われる能力が違う。

 おれは高校まではまったく勉強してこなかったが、大学に入り学問の楽しさを知った。だから院に入れた。

 だけど、世間ではいまだに学部のほうがエラくて院は下だという風潮が強い。たとえ4流大学から東大の院に行こうが、東大から東大の院に進んだやつのほうが無条件にエラい。へたすれば慶應や早稲田で学部から院まで生え抜きで進んだやつのほうが4流大から東大の院に進んだやつよりもエラいということにもなる。そもそもどの大学に行ったかでエラいエラくないが決まることがもうバカげている。学歴のせいで人は不幸になっている。

 おれは学部が4流だったばっかりにずっとコンプレックスを感じ続けることになる。とくに自分よりいい大学に行った人間と関わる時にはそう感じることだろう。

 どうして、自分の過去を偽らなければならないのだろう? おれはおれの過去のすべての経験からできている。おれという存在を語るうえでひとつたりとも欠かすことはできない。4流大学卒というこの経歴まで含めて今のおれがある。それを隠すことは、おれ自身を隠すことだ。そして自分を隠すことで、他人とも分かり合えなくなる。

 もしかすると、指名手配犯はこういう気持ちを常に抱えながら逃げ続けているのかもしれない。隠し事を抱えながら生きていくことは、さぞつらいことだろう。でも、指名手配犯はそれでもうそをつき続けなければならない。まるで積み木のように、それが崩れないよう必死になってうそにうそを重ね続ける……。

 自分を偽るということは自分を否定するということ。おれは、もうこれ以上、自分を偽りたくない、隠したくない。

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