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第445回、ウォーク化するディズニー


自分がウォークという言葉を知ったのは、ディズニー映画「ウィッシュ」の批判評価を見る中でしたが、ウォークというのは端的に言うならば、社会的な正しさを極端に主張する人達の事を示すようです。

「社会的な正しさを主張する事の何が悪いのだ、素晴らしい事じゃないか」と言われるかも知れませんが、世の中ディズニーアニメのおとぎ話の様に、善人と悪人がきっちり分かれている訳ではないのです。

擁護のしようもないわかりやすい悪人がいて、そいつを倒せば世界が平和になる様な、現実はそんな単純なものではないのです。


しかしよくよく考えると、ディズニーは昔から、善と悪がはっきり分かれた勧善懲悪ばかりを描いており、悪を倒してハッピーエンドという展開の物語しか描いていない様に思います。
※あくまでも自分が知る範囲での、主観的な意見です。

自分は以前からディズニーの、勧善懲悪展開が好きではありませんでしたがそれでも見ていられたのは、善と悪の概念が、主人公の行動の範囲にのみに限られていたからなのかも知れません。

しかし近年のディズニー作品では、善悪の描写が社会概念にまで及んでいてそれに対して正義の主人公が、悪を倒して社会を正しい方向へと変える展開の作品になりつつあるように思うのです。

分かりやすく言うならば、これまでの作品のプロットが、
「人生を変えたければ、自分の生き方を変えろ」だったのが、近年では、
「人生を変えたければ、社会の在り方を変えろ」へと変化しているのです。

「それの何がいけないのだ?素晴らしい事ではないか」と言われてしまうと上手く返答するのが難しいのですが、このプロットでは、未成熟な主人公が悪の誘惑や社会の厳しさにもまれて大人になっていく成長物語ではなくて、「悪いのは社会であり、正しい自分は何も変わる必要はなく、変えるべきは社会の方なのだ」という、中二病真っ盛りの、未成熟な青年の主張になってしまうのだと思います。

その最たる作品が、ディズニー映画の「ウィッシュ」であり、「私きっと、間違えていない」という主人公の歌に、それが表れているのだと思います。

自分は「アナと雪の女王」が好きで、この作品は、ポリコレの概念が蔓延する前に作られた、ディズニーの貴重な最後の作品だと思っているのですが、しかし今にして思うと、ディズニーはこの頃から、ウォークの思想に染まり始めていたのだと思います。

それが従来のプリンスポジションの男性を、悪役に描くという展開に現れていて、「私に王子様は必要ない」という展開にしたいだけなら、何も王子を悪に描く必要はないのですが「王子という存在、概念自体が社会悪なのだ」と考えているから、わざわざ王子を悪に描くのです。

この要素は、アナ雪の中で一番不要な点だったと自分は思っているのですがアナ雪が世界的に大ヒットした事で、ディズニーは王子を悪役に描いた事が世間に高く評価をされたのだと勘違いをして、ウォーク思想に大きな拍車がかかってしまったのだと思います。

今の社会に本当に必要なのは、「男性は悪だ。私達女性に男性は必要ない。でもクリフトフみたいに従順な男なら、いさせてあげておいてもいいわ」という事を描くのではなく、男性も女性も互いを尊重し合い、共に社会を築く真の男女共同社会を描く事ではないのかと、自分は思うのです。

ハンスは別に、悪の存在である必要がなかったと思うのは、自分だけでしょうか?
アナがクリフトフを選ぶために、ざわざわハンスを悪に描く必要はないのです。
アナ雪が良かったのは、ヒロインのエルサの成長要素があったからだと思うのですが、
こいつは物語で、何か成長をしたのでしょうか。

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