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「無臭の排泄物」

「愚痴、あらため」

「愚痴」ってどうして気持ちよくこぼせないんだろう。私の「愚痴」は私の心の正直な気持ちだ。からだの中で消化できず、分解もできず、どこにも行く当てのない感情。ため込みすぎると、どうしても止められなくて、堰を切ったように流れ出てくる。
 一方で「愚痴」ることを戒める心の声もある。
「まわりの人を不快にするよ」
「愚痴ったって何にも変わらないじゃない」
「ネガティブなことを言っていたら表情が暗くなるよ」
 確かにその通り。幸福を感じるためには愚痴を言わないのは最適なのはよくわかる。幸せになるヒントの定番項目である。
 何の気なしに「愚痴」という言葉使っているけれど、一体語源はなんなのか調べてみた。すると以下のことが分かった。
①  仏教用語。「嫉妬心や恨みの心」「他人の不幸を喜ぶ心」という意味。
②  江戸時代あたりから「言ってもしかたないことを嘆く」という意味として使われるようになった。
 
 ここで疑問が生まれた。
はたして、「愚痴」という言葉は「私の心の声を外に出す行為」の説明にふさわしいのだろうか?
念のため言っておくと、私は熱心な仏教信者ではない。仏教の教えにたてつくつもりもない。
 そもそも、「愚痴」の意味が江戸時代から変わってないのである。今はもう令和なんだから、違和感が生じてもおかしくはない。
それなら、自分で違う言葉を探して名づけるしかない。
 「排せつ」はどうだろう?
 愚痴を言う人はどうしても言いたくて口から出るのである。それは無臭の排せつといってもおかしくないじゃないか。ただ、排せつ物は出すときに注意が必要だ。

出したいときは「出すよ!」という
相手に早めに言って知らせる
たくさん出したいときは、数回に分けて
そのようにすれば、聞くほうも
「ああ、いっぱいたまってガマンできないのね・・・。」と思ってくれるかもしれない。分からないけど。

これからは、私の「愚痴」は、「無臭の排泄物」ということにしようと思う。
もちろん、周りのことを配慮しながら。

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