粒≪りゅう≫ 第十六話[全二十話]
第十六話
「さむっ」
口を開くと飛び出すこの言葉。
粒は相変わらず、寒い季節が苦手だ。けれども、あの、温かい思い出ができてからは、粒にとって、ただ寒くて辛いだけの季節ではなくなった。
両手をグッパーグッパーと、動かしてみる。うん、調子いいぞ!
星加に救われた粒の両手は、以前は頻繁に、レイノー現象を起こしていたということを忘れてしまうほどに、寒い季節がやってきて、容赦のない冷気に襲われても、蒼白になることはなくなった。
まるで、星加がガードして、守ってくれているのではないかと思うくらいに。
粒は、あの時の、嬉しかった気持ちが甦ると身体中が温かく、幸せに満たされる。星加がお湯の中で、必死に温めてくれた、粒の手。ドックンドックンと、粒の命を司る心臓が、うっとりと脈を打つ。
粒は、そうして、心臓の鼓動を感じる度に、自分の身体中を絶え間なく行き来している血液が、どんどん綺麗に浄化され、若返っているように感じる。きっと今自分は甦っている、とわかる。
仕事帰りに通る道の脇に、葉もなく、干からびてしまったかのようにしょんぼりとした、小さな植木が寒そうに並んでいた。その木々に、まるで通せんぼされているかのような状態で、ひらひらとチラシのようなものがはためいていた。
粒は、気にはなったが、いちいち路上で見かける度に、落ちているゴミを拾うことはしていない。けれども通り過ぎる際に、フイと目をやるとやはり何か気になって、ついつい手に取ってしまった。
そうして手に取った紙切れの、ある部分に、引き寄せられるように粒が視線を向けると、そこには、星加とおぼしき人物の写真があった。
粒はうっくんと、唾を飲み込んだ。星加は、どうも、作家のようだった。
その、元々は情報誌の一部だったであろう紙面には、数冊の本と、その著者の紹介がされているらしく、星加はその中の一人だった。
粒は静かに納得した。
“星加さんは編集者と、作家の両方をこなしておられたのか”
粒は、時代劇でよくあるシーンの、ブワサッっと刀で切られて、「うおおおおっ、やられたぁ~」とうめいて絶命してゆく、侍になった気分だった。
そして、
“ん、待てよ。私がお世話になった時は、まだ、作家業に就いておられなかったかもしれないし・・・もし、その時既に兼業されていたとしたら、一体いつから作家さんだったのか・・・。それにしても、なんで私は気付かなかったんだ?なんで私は知らなかったのだろう、星加さんという作家さんの存在を・・・たまたま、手にとってなかったのだろうか・・・だって、紙の本が読まれなくなったとはいうものの、この世に本は沢山存在する。一生かかっても読むことなど出来ない、物凄い数の本が存在するもの“
と思い、再び星加の記事に目をやると、
「わっ!」
思わず声が出た。内心は、うえええええええー!うそおおおおおお!である。
鳥肌が立った。この写真に写っているのは、紛れもなく星加だと粒は思った。こんなに星加そのものでいて、こんなにも星加を思わせるものを放っているのに、星加でないわけがない。
“だとしたら、この星加さんの顔写真の所にある、この名前は?所謂ペンネーム。だとすると、ほんとに?えええー!”
また鳥肌が立つ。
そこに記されていたのは、【谷中 宏彰】という名前だった。
6年前・・・粒は、疲れ切っていた。
それまでも、いつも、疲労感と、言いようのない不安感を背負っているような状態ではあったが、その頃は特に辛かった。
日々悶々として、家の中も殺伐としていて、パート先では物言いのとても厳しい人に、よく叱られていた。
子供たちも、まあ、幼い頃からずっとと言えばそうなのだが、『健康体で元気いっぱい』ではなく、『大らかに朗らかに』というのともほど遠い雰囲気を醸し出していて、粒が何とか盛り上げようとシャカリキになっても、空回りするばかり。
年々年老いていく双方の親の問題事や、意志疎通の出来ない兄弟たちとの事、在宅中はずっと重い空気を放ち、態度も言葉もピリピリとトゲのある配偶者への嫌悪感。
粒はもう、死んでしまいたかった。この先もこんな日々がずっと続いていくのかと思うと、もう何の希望もなく、夢見る気も起らず、無気力だった。いつも、いつかいつか・・・と、前へ前へと自分を励ましていた力が、ちっとも湧いてこなかった。
“もういいや、どうにでもなれ。きっと私がいるから、こうして何もかもがいいように回って行かないのだ。私がいつも、余計なことばかりするから、こうして皆を不幸にして、暗い雰囲気にしてしまうんだ。家事も育児も仕事も、何をやってもドタバタしているだけで、肝心なところが出来ていないのだ。私は、一生懸命やっているつもりなのに・・・もう私にはどうしようもないのに・・・。私がいなければ、皆の邪魔をする者がいなくなれば・・・きっとうまく回っていく・・・”
粒は、路上で自転車に乗っていても、歩いていても
“私なんか、事故に遭って死んでしまえばいいんだ”
と思ったりして、自暴自棄に動いていた。
そんなある日、粒は図書館にいた。
子供達が小学生低学年頃まで、よく通っていた図書館に、久しぶりに、ふらっと足を運びたい衝動にかられたのだ。
そうして粒は、来てはみたものの、何か目的があったわけでもなかったものだから、ふらふらと図書館内を歩き回っていた。
そして、歩いているうちに行き着いた奥の方にある、大きな本棚の中に並んでいる本を、無気力に見ていた。
読みたいと思う作者名も浮かんでこない。読みたいと思うジャンルもない。つらつらと、本の題名と作者名を順々に、ただ目に映していた。
と、少し先にある白い背表紙に、囁かれた気がした。手にしてみた。ページをめくる・・・
『よくきたね。よく僕のところに来てくれたね。嬉しいよ。あなたが来てくれることは、わかっていたよ。大丈夫、もう大丈夫だから。もう、そんなに自分を責めて頑張らなくていいから、僕のところでゆっくりやすんでいいよ・・・』
と、言ってくれたように感じた。
その本は、小説でもあり、自己啓発本でもあり、エッセイでもあるような、粒がそれまでに、出逢ったことのない本だった。
その本は、その作者は、粒の弱りはてた心と体を元気づけてくれ、優しく癒してくれた。そして、粒の正気を取り戻してくれた。
その、本の著者が【谷中 宏彰】だったのだ。
その本の作者は、優しく語りかけてくる。
『こんな事もあるよね、あんな事もある、いろいろあって大変だけれど、大丈夫だよ。なんとかなるよ。あなたが頑張っていることを、僕はよく知っている。でも、あなたは何のために頑張っているの?あなたが頑張っていることは、あなた自身が幸せになるためのことなの?・・・』
粒は、何度も何度もその本を読み返した。読むごとに、体内の衰弱していた細胞が、元気を取り戻している気がした。
子供達が大きくなるにつれて、あまり足を運ばなくなった図書館で、たまたま出逢った本だった。
“ああ、あの時も星加さんは私を救ってくれていたのだ”
第十七話につづく