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粒≪りゅう≫ 第四話[全二十話]
第四話
《その人》を、粒は《におい》で感じた。
香りというのとは違う。体臭・・・というのとも違う・・・ような。
明らかに、既製品の匂いではない。
その人が、纏っているというか、その人の《もと》となっているような《におい》だ。
なんだか、そんな気がした。
偶然、地下鉄の車内で、隣の席に座った《その人》から、粒のもとに運ばれてきた、何とも言えないにおいに、粒の全神経は一気にくつろいだ。
勝手ながらも、同じ《にんげんのもと》を持っている人だと、粒は強く感じた。
本当に、心安らぐひと時だった。こんなことは初めての体験だった。
ああ、人って、こんなにも温かい存在で、こんなに心地良い匂いを持っていて、そんな人の隣にいると、自分はこんなにも穏やかな精神でいられるのだ。と、気付いた。
ずっと、ずっと、ずーっと、この心地良き状態でいたい。
出来ることならば、この見ず知らずの、まだ顔も見ていないこの男性らしき人に寄りかかって、すやすやと眠ってみたい。
“ああ、私、今、すごく幸せだ・・・”
とても残念なことに、その幸せは長くは続かなかった。
願う気持ちとは裏腹に、早々に粒は、下車する予定の駅に運ばれてしまった。
駅名を告げるアナウンスが入り、ドアが開く。
“ああー。ずっとこの人の横で、この匂いに包まれて、穏やかな気持ちで過ごしていたい・・・”
粒は、親に手を引かれつつも「まだここにいたいー!帰りたくないー!」と泣き叫ぶ、幼い子供のような心境だった。
だって、こんな稀な体験、もう二度と出来ないよ!粒の心が呟いた。
ぬくもりに飢えているのだった、粒は。そう、心がさもしいのだ、いつも。
その人は、粒の隣に腰を下ろすなり、抱えたリュックの中から本を取り出し、読書を始めたのだった。
ちらりと目をやった時に、粒の視界に入ってきたその人の手は、力強そうでいて、美しかった。
粒は、不自然な動作を、出来るだけ不自然に見えないように、立ち上がって扉に向かう前に、まるで自分の座っていた所に忘れ物がないかと確認する風を装い、その人に視線を向けた。
読書をする格好が、凄く様になっていた。が、頑張った割には、一瞬盗み見した粒の脳が、その人の顔を認識することは全く出来なかった。
粒は、とても残念な気持ちでいっぱいだった。
それでも、ほんのしばらくの間隣にいたその人のもたらす存在感と究極の《におい》で、粒の心身は満たされていた。
一時包まれていた優しい空間から、現世界へと歩み出した粒は、感嘆と嘆息の混じり合った、長い息を吐きながら、肩にバッグをしょい直した。
「今晩のおかず、何にしようか・・・」
ぽちりと呟いて、家に向かった。
***
『来週あたり、都合の良い日にお茶しませんか?』
真利からメールが届いた。
『うわぁ嬉しい!私は、木曜日以外なら、いつでもOKです』
本当に嬉しい。こんな無精者の自分に、時折お茶に誘ってくれる人がいる・・・粒の心がほんわかと和らぐ。
粒の方から誘いの声を掛ける事は、滅多にない。粒は出来るだけ、自分の方から他人を巻き込む用事を作らないとこにしている。自分は現在無職だから、仕事についている人の大切な時間を奪ってはいけない・・・という思いがあるからだ。
そして更に粒は、ひとりで過ごすことが苦ではなく、むしろ、出来るだけひとりの時間を楽しみたい人間だからだ。楽しみたい、というよりも楽なのだ。ひとりが。
でも、誘ってもらうと嬉しいのだった。時折声を掛けてくれるのは、真利と美苗。魁が幼稚園児だった頃に、たまたま公園で知り合ってからの、細々と長い付き合いだ。
出会った当時、お互いにまだ幼い子をもつ親同士だった三人の付き合いは、親子同士の付き合いから、子供の成長と共に、ひとりの女性同士の付き合いに変わっていった。
子供同士は同学年ではなく、少し年齢差があったのだが、それがある意味、気楽で良かったのかもしれない。
粒は、真利と美苗が好きだ。ふたりのもたらす空気は、いつも殺伐としている粒の心に、ほのかに色付けをしてくれる。
何度かメールのやり取りをして
『じゃあ来週金曜日の9時に【すまいる】でね』
と、いつも3人で会う時お決まりの、ファミレスでの待ち合わせが決定。
早速粒は、書き込みのほとんどないスケジュール帳に予定を書き込む。ニコちゃんマークも付けた。
第五話につづく