中島みゆき 夜会「リトル・トーキョー」プロローグ ー夜会のざっくりした流れー
中島みゆきが原作、脚本、主演、作詞作曲、歌唱をまるっと担当する「夜会」というプロジェクトがある。歌唱に込めすぎると聞く側がどん引きするいろいろを、演劇畑に放り込むと手加減しなくてよくなる。
σ(・_・)が最初に行ったのはVol.2の「1990」で、まだ演劇要素は殆どなかったにも関わらず、中島みゆきの全力にぶん殴られたようなショーゲキだった。この回からDVD(最初はVHSとLD)に収録され発売という流れが出来、追体験できるが、初回には叶わない。『いろいろあったけれどもう大丈夫、私、こんなに元気になったでしょう?』って失意の女性がカラ回り、日々のニュースがショウ・タイムのごとき刺激の強い破片になって彼女に容赦なく突き刺さる。やられるん?筋立て的に鬱展開なん?荒れ狂うピアノサウンドがくるっと反転して始まる「Maybe」。
Maybe 夢見れば Maybe 人生は
Maybe 辛いことだけが多くなるけれど
Maybe 夢見ずに Maybe いられない
Maybe もしかしたら
σ(・_・)は見ていないが、かつて「僕たちの将来」で核攻撃を思わせる演出から白黒反転してくるりと「はじめまして」がスタートした展開に似てるのかも?Maybeはミディアムスローテンポで始まり、AメロBメロは速め、そしてサビは上記でまたスローになる構成。曲のスピードがくるくる変わる、その効果が歌詞の内容にぴったりだった。本編のラス曲にして新曲。コード進行どころか上からなぞって歌えるほど似ている「誕生」というシングルがリリースされていたので、当時、それのカラオケ使って「Maybe」を絶唱してた記憶がある。
『手加減しなくていいんだね、なら全力でぶん殴るわ』とばかりに、「夜会」は実験劇場となっていった。既出曲を使って、演劇要素が強くなり、既存曲の解釈を敢えてコロッと変えて、『男女の詩だと思ったっしょ?あーらびっくり、親子の詩なのよー♪』っていう展開もやってみせた。
※σ(・_・)は見事にひっかかったw
『既出曲について、聞く側の解釈がガチガチになってしまっていて、曲が可哀想、もっと違う広がりもあるんだぜーい』という、「曲の解放」「言葉の実験劇場」を意識していたとご本人が仰せだった。中島みゆきの歌詞は、意味を多重に込める系だと思う。そしてその解釈については、当人は頑なに明かさない。ちょっとでも言おうもんなら、作者が言うんだからそれ確定と、聞く側が考えることを辞めるかもだし、自分が感じたことと違う、間違っていたのかと誤解するかもだし。すなわち曲に折角込めた広がり、多重さを限定しかねない。夜会が始まる前、「3丁目の赤信号って歌っているけど、実は1丁目の赤ポストのことを歌っていたりする」的なことを仰せだった。
他方、中島みゆきは天の邪鬼属性でもあるため、『表面上のストーリーとは全然違うほんとの物語が裏で進んでいて、それを一気に解放すると、こーんなステージになるんだな、へっへっへ戦略』の集大成である「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」でひねくりまくる作劇に疲れたっつって、「高速エリアに長距離トラックが駐まってるっていう歌詞は、きっとまた何かの暗喩ですか?」というリスナーの問いに、『ひねっていない、そのまんま』みたいな返しをしたりしていた。大抵、翻弄されるのは我々サイド、左右上下に、前世今生来生にフェイントされまくるのはデフォで、表現も予想だにしない方向に飛びまくるため、我々ファンは、「みゆきさん、大丈夫かすら、オオコケしないかすら」と、当人曰く「うちのファンは保護者目線」と仰せであった。
そんで休むことなく夜会は次のステージに移行。全曲新曲。ストーリー書いてるうちに、既存曲を当てはめる作業をやめて、そのストーリーに合わせた新曲を作って作品に仕上げる。これを1年でやらかす。この初回が「2/2(にぶんのに)」。幾度か再演され、あの2011年には敢えて大幅にシナリオを改変して再々演された演目。σ(・_・)、感涙しまくり。再演ごとにセリフの表現も変えるが、ヤマ場の構成、セリフ回しについてはσ(・_・)はやっぱり初回がいい。
さてこっからさらに保護者目線でハラハラ展開が続く。w ストーリーの起承転結がわからない。劇のシーン自体はわかるが、その起因が、その結果に繋がるには相当段飛びしないと無理なんじゃ・・・。上段翌年の「問う女」は、歌も少ないし、救いようのないストーリーに思えた。実際、DVDではステージとはもはやベツモノ?とも思えるほどの改変がなされ、ロケで撮った映像が多数差し込まれ、なんとかどーにか作品になったような感じだった。象徴的な改変の1つは、夜会のトータルテーマ曲「二隻の舟」。夜会ではコーラスさんによる歌唱だったのが、DVDでは中島みゆき歌唱に変更されていた。
・・・湯水のように言葉を使う局アナ。それが仕事だから、とにかく毎日言葉を使いまくる。自分の意志とは真逆の指示があることもあり、それに従って言葉を使う。しかしある時、彼女はたった1つ言葉を使い間違える。それを取り繕うべく、言葉を使えば使うほど、ドツボにはまり、どーしよーもなくなった彼女は夜の街に出る。このプロローグはわかる。確かにそれを表現したステージだった。でもそこからの展開が・・・。ってな感じ。
夜会プロジェクトの1つの区切りとされたVol.10「海嘯」も、なにがなんだかワカンネ演目だった。しかし、ストーリーを棚上げすれば、曲数は多かったし、普通にいいライブコンサートだったと思う。
なかなか「リトル・トーキョー」に辿り着かないので、ちょっと巻きで書くのを頑張る。
さてその後もプロジェクトは続き、主演(人間)を別に立てて、自分は犬の役で終始マジで犬だったり。w たぶん、主演が自分じゃなくて、人間の役でなくて、ステージでずっと犬だったらお客はひっくり返るんじゃないかな?みたいな冗談からホントになった企画なんじゃないかな?ネタとしてはありだが、この演目「ウィンター・ガーデン」は意味がほとんどわからないままだった。ト書きを朗々と読み上げるのは狂言回しで、樫の木の役。σ(・_・)は一体、何を見せられているのだろう。これが2年続いたものだから、(2年目は1年目を改変した再演)保護者目線のアンケートも冴えないものが少なくなかったかも?それが理由なのか知るよしもないが、この演目のみ、DVD化されていない。なにより夜会のトータルテーマ「二隻の舟」すら歌われなかった。
そして次から夜会は「輪廻転生」3題目へ繋がる。
そもそものブレイク曲「時代」からしてその主題を歌っていたのだが、犬の翌年「24時着0時発」で高らかにそれを打ち出す。主演(人間)は中島みゆきに戻り、他の主題も併走させながら、
この一生だけでは辿り着けないとしても
命のバトン繋いで 願いを引き継いでゆけ
今生では力尽きたけれど、来生があるべ、そこに託そう?
と歌いつつもなお、今生も諦めない。
生きて泳げ涙は後ろに流せ
向かい潮の 彼方の海へ生まれなおせ
この曲がこの回の夜会のラス曲で、
アイリッシュダンス?みたいな力強い足取りで終わった。
ここでσ(・_・)は本記事のタイトルに加筆した。「リトル・トーキョー」を書くには論点がずれ過ぎるし、記事が長すぎる。
話を戻し、生きてるなら儲けもん、いろいろあるけど涙は後ろにぶん投げて、泳いで泳いで、ちょーっと今生じゃ無理っぽかったら、来生を見越してなるたけ向かい潮の彼方を目指して泳げ、そこで転生すれば少なくても今生よりも追い風で有利であろう、とな?「二隻の舟」も無事戻って来て、舞台を展開する、鍵となるところで効果的かつ感動的に歌われた。保護者目線のσ(・_・)「うちの子は、出来る子なんです」。w
以上、本記事はプロローグです。次回は輪廻転生3題目の予定です。リトル・トーキョーはその次の予定・・・。もしかリトル・トーキョーから先に書くかも。
おまけ
初めてのGarageBandで打ち込んだ「慕情」
テンポがヨレヨレで練習がんばれっていうレベル