合意形成と根回しの話

そういえば、以下の記事で『絶望鬼ごっこ』ははじめ1巻だけのつもりだったと書いたのだけど、そのあたりの事情についての話。

いちばんはじめのプロットでは、1巻のラストは以下のようになっている。

エピローグ:『帰りの会』
校舎の外に出た子供たちだが、町の様子は一変していた。人の気配がなく、あちこちで煙があがっているのだ。
そしてタブレットにあらたに表示される、町の地図と、鬼の文字。
子供たちは誰からともなくうなずきあうと、帰りの会をはじめる。いつもどおりの進行をしながら、みんな泣きそうになっている。
みんな、さようなら! また明日!
声をかぎりに号令すると、子供たちは鬼のうろつく町中を、それぞれの家路に向かって駆け出していった。

これはね。
担当と打ち合わせをしていて、

「ハリウッド映画とかでよくある、映画が終わって、スタッフロールが流れたあとに、画面が暗転して、どこか薄暗い部屋のなかで、謎の男がなにか意味深なことをつぶやいたあとで、『to be continue………』って真っ暗になって、劇場の明かりがもどる、ああいう演出ってなんかアツイよね!」

……みたいな話になった結果、作ったプロットだった。
つまり、物語としては終わるんだけど、ホラーらしい不穏な余韻を残して終わろうか、という。

ただ、しばらくしてから担当に、「営業に見せたら、最後を変えてくれと言われちゃいました…」と、申し訳なさそうに言われて。
理由を聞くと、「これだと続編ありきっぽいけど、売れなかったときに赤字を増やしたくないのでと言われて…」と。
僕はそのラストのイメージで結構固めちゃっていたので、「いや、だって話し合ったじゃん!」とか、「続編のつもりじゃなくて、余韻を残したいだけだよ!」とか、「営業、めっちゃ後ろ向きだな!」とか、いろいろ思ったんだけど。
そもそもどうしてプロット段階で営業に見せたんだよ~、見せなければいいのに~……と、ちょっと不満にも思っていたんだけど……。
途中で、いや、ちがうなと気付いた。
そうじゃなくて、「原稿が完成したあとに卓袱台返しにならないように、プロット時点で様子を伺いにいったんだ、これ」と。
今でこそ、編集部として通ってから営業でひっくり返るなんて話は、「まあ…よくあることだよね…(死んだ目で)」と思うようになったのだけど、新人の僕はそんなこと知らなかった。そうした事象の存在に、このときはじめて気づいた。
そうして思った。
そうか、これが「根回し」ってやつなんだ、と。

僕は、まずは自分一人で徹底的に考えるタイプだ。
自分のなかできっちりと考え、分析検証や仮説立てを行い、ある程度の明確な形を作ってから、はじめて自分の外に出していく。
その前の段階で人とあれこれやりとりしすぎると、自分のやりたいことがよくわからなくなったり、思考が浅くなってしまう。
自分のなかで溜めこんだ内圧を、できるだけ逃さないように形を作る。
いまでも、ほんとうに大事な核の部分は、人には共有せずに原稿を書く。そうしないと、熱のあるものにならない。

が、組織のなかでこれやっちゃダメなんだよ。
いきなりきっちりと考えて作られたものを目の前に出されても、人は忙しいときに興味がないものを、わざわざ中身までしっかり踏みこんで見て考えたりはしない。僕は結構これをやらかし、ちゃんと中身見てよ~とストレスを溜める。会社員時代からそうだった。
組織のなかで動くならそうではなくて、事前に「こんなこと考えてるよ」とか「こんなことやろうとしてるよ」っていう発信をしておいて、「あいつはなんか考えてるらしいな…」ってぼんやりとした興味を持ってもらった上で、「考えてたのはこれです」と出すと、中身を見てもらえやすい。
プロセスの問題だ。
たぶん担当は、その「こんなこと考えてるよ」を、営業に発信しにいったんじゃないかなと。

僕は、編集者は本作りの「真ん中」に位置取ってるんだな、と思うようになった。
ある本があったとする。
本の「内容」に関しては、メインを張るのは作家だろう。
が、その本を作って販売する「プロジェクト」に関しては、作家はむしろ端っこだ。
だって、作家がやりとりするのは、編集者1人だけなので。そのほかの関係者すべてとやりとりするのは、編集者だ。人の集まりという意味では、ここが中心点。
だから、編集者が作品に熱を持って外に動きかけてくれると、関係者みんなが本気になってくれやすい。作家だけ熱を持っていたところで、関係者にはだれも伝わらない。
そうした、体制づくりというか、空気づくりのようなことをしている。僕のように、自分のなかできっちりと考えるタイプの仕事の仕方ではなく、まわりに広げるタイプの仕事の仕方をしている。
そのひとつが、営業にプロットを見せることだったんじゃないかなと。
結果として藪蛇になってしまった感じはあったけど、「そうか、自分にはできない仕事をしてくれた結果なんだな」と思った。
ので、僕も納得してプロットのラストを変形させた。
物語の核にさえ影響がなければ、編集者が動きやすいように、そうした枝葉は柔軟に変えていこう、と思ったのはそのときだったと思う。

絶望鬼ごっこの1巻について、完成したときには、結構いろんな人から応援してもらえているような空気を感じていた。
はじめは赤字を増やしたくないと言っていたらしい、営業の人たちも積極的になってくれた。
それは、作品の内容もあったとは信じているけど、それよりも中心位置にいた編集者が、周囲に熱と動力を伝えるスポークの役割をしてくれたことが大きいんだろうな、というのは結構感じていて。

その後の経験を含めても、そうしていろんな人が積極的になってくれたときは、売れる確率が高くなるな、とは感じている。
もちろん、みんな本気になってくれたけど数字に繋がらなかった、という経験もあるけども、それはまあ、ルーレット運ってことで。
なるべくいい形で作品を作って送りだせないかなぁ、というのは、以来、結構考えながら仕事をしている。

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