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神戸大学

神戸で1人暮らしを始めたのは、神戸大学に入学したからでした。高校時代、夕方にテレビでやってた「あぶない刑事」が好きで、「港町、いいなぁ。1人暮らしするなら横浜か神戸かなぁ」と考えて神戸大学へ、、、ではなく(笑)!

1990年のポール・マッカートニー初来日。中学3年生の僕は弟と、東京ドームまで向かいました。憧れた人が目の前にいる、、、!と涙を流しました。そのツアーでポールが訴えていたのが「環境保全」。それをきっかけに、この地球を大切にしなくては、、、という思いが芽生えていました。

あまり大学に行く気がしなかった高校3年生の9月、理科の4分野(物理・化学・生物・地学)を横断した、日本で初めての環境問題に取り組む学部が新設される、というニュースを見たからでした。「Wow!ここに行きたい!」って。真面目な理由でしょ(笑)?

小学、中学、高校時代を通じて、勉強は嫌いではなかったんですが、9月から、必死で勉強した記憶があります。決めたら絶対やる!な性格だったことも関係してると思います。意地もあったかと。ポール・マッカートニーに教えてもらった、当時の環境問題の深刻さに対処するために!

(↑3:26あたり。というか、この時47歳か!ほぼ今の僕と同い歳やん!)

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(↑なんとなく影響を感じさせる髪型のハタチの僕。由美子おばちゃんと)

合格発表のその日に大学生協へ行きました。1番乗りだったようです。「1番安い家賃の物件を教えてください」というと、生協の人に「え?まだもっといい物件、たくさんありますよ?」とびっくりされて、「そんな高いところで暮らせるほど、遊んで暮らしませんので」と言ったけなぁ。トンガってるよねぇ(笑)。

そして決めた23,000円の部屋。風呂なし、共同トイレ。「山和荘」はそれでも、僕の初めての「城」でした。「自由」がそこに在りました。今考えると独立心、旺盛だったと思います。親には出来るだけ頼らず、頑張ってみたかった、という感じかな。

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(↑山和荘。写真は全部、NHKの取材のために実家から取り寄せたもの)

親父が京友禅の下絵師で、なかなか窮困してたので、入学金も授業料も実は今まで1円も神戸大学に払っていません。窮困しているだけでは支払わないといけないので、成績がよくなければなりませんでした。朝からちゃんと授業に出て、要領も考えながら、「優」がほとんど、という成績でした。自慢じゃなくて、、、僕はこの大学に入って、環境問題に特化した勉強をしたかったからです。アルバイトは家庭教師を週2日間を2人、22:00〜翌2:00までのローソンを週3日(土曜日だけは22:00〜翌9:00)、そして音楽スタジオで週2日間程、でした。それから軽音楽部。夜な夜な音楽のことを仲間と語り合う日々。いやぁ、毎日フル稼働でしたね。今も変わらないけれど、昔からそういう生き方しか出来ないんでしょうかね。

でも大学の勉強にも少し疑問を持ち始めていたのかも知れません。どうも高校の理科の授業の延長のような気がしてたんですね。でも、今なら思う。それは与えられた授業だぞ!もっと自分で考えて、自分で何を掛け合わせるのか、考えるのが大学というところだぞ!と。知らんけど(笑)。

同時に軽音楽部でオリジナル曲を演奏するバンド「JOE CLOUDS」を組んで、軽音の中だけで活動するより、もっと外へ出て、いろんなライブハウスに出て、自分たちの「ファン」を増やすために、どうしたらいいか?っていうことを自分で考えて動き始めていたので、ほんとは勉学で使うべきそういう能力を、バンドの方で使ってただけなのかも?うん、それが正解な、、、そんな気がする。。

そして1995年1月17日。成人式には出なかったけど、京都での同級生との飲み会に行って体調が悪くなり、インフルエンザかな?という症状で16日の午前中に京都から神戸に戻り、そのまま寝込んで、、、突然の地震。一瞬、人生が終わったかと思った出来事。

1月末に大学のテストがあったんですが、そりゃもう大混乱の中のテスト。カンニングしても通る、見て見ぬふりのテスト。自分の中の何かが弾けた気がして、大学を中退することを決意しました。ここでこれ以上、勉強は続けられない。。

死ぬかも知れない瞬間を経て、大学への疑問、音楽をやりたい気持ち、その他いろんなことを考えてしまって、「辞めることで自分を追い込むべきだ」と決めてしまいました。生きる、ために。

発達科学部人間環境化学科の担当、中川教授(だったかな)は何度か引き留めてくださいました。でも、一度ライブを観に来てくれました。チキンジョージでした。それを観てから決めようじゃないか、って。

そして退学。終わらせないと始められないこともあるはずだ、と信じたハタチでした。

神戸大学、好きな大学です。阪急六甲から歩いて通うとなるとめちゃくちゃ大変な坂道だらけですが、バイク(YAMAHA XJR400)に乗ってた僕は、その景色を眺めながら通うのが好きでした。教養学部の食堂のハムカツサンドイッチが大好きで、そればっかり食べてた気がします。ハムカツが結構分厚くて、今もそれと同じくらいの厚さのハムカツサンドは見たことがない。

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(↑これは従兄弟にもらったSUZUKIのカタナ。初めてのバイク)

神戸大学、選んでよかったなって、今も思います。大学生らしいこと(合コンとか)は全然なかったですが、勉強と音楽とアルバイト、全部自分で選んだ2年間でした。

あの頃の友人たちは何してるんだろうなぁ?とふと思い起こすこともあります。今も会うのは、、、神戸市議会議員の諌山のだいちゃんくらいかな?だいちゃんは、大学生らしい大学生でした(笑)。まさか選挙ポスターで大学時代の同級生の顔を見るとは思わなかった!

大学時代の、というか、軽音時代の友人や先輩、後輩にはたまに会うんです。大学辞めてからも軽音には顔を出していたので、Facebookで繋がってたりもするし、近しい感じがします。やっぱり2年で中退では、あまり大学生としての友人関係の思い出も濃くないのでしょう。

そういう意味で、一番親しかった軽音の友人であり、同じく「山和荘」の1階に住んでた小泉健が突然、数年前に亡くなってしまったのは、無念でならない。僕がVARIT.で働いてからもVARIT.に出演してくれたり、何かといつも、会うと原点に帰らせてもらえる、そんな仲だった友人。深夜のローソンで廃棄物の「甘いもの」があると、小泉のために持って帰って部屋をノック。そして朝までロックについて語り合ったりしてたなぁ。福井訛りの小泉健。軽トラックに原付バイクを載せて引っ越してきた小泉健。少年ジャンプを足で押さえながらフルーチェ食ってた小泉健。

ライブハウスが大変になって、撮影・配信を一緒にやっていこう、というジャッジメントKOBEチームが出来て、なぜか今日、「神戸大学バリュースクール設立記念式典」の撮影と配信のお手伝いをさせてもらうため、神戸大学に行って。

出来立てホヤホヤの理科4分野を横断する発達科学部。そして、文系と理系が横断するバリュースクール。

何かを思い出さずにはいられなくなって、僕にとっての「神戸大学」を描いてみました。

大学かぁ。今、もう一度行ってみたいな、という気はしています。

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(↑本日の神戸大学バリュースクール撮影・配信の模様)

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