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言葉と意味の多重奏

音楽は、メロディと歌詞との組み合わせだ。もう少し分解すると、メロディは楽器の音色やら拍やらに分解でき、歌詞は言葉の音とその意味に分けられるだろう。更に分解すると、音色は空気の振動と周波数の違いだし、拍によってその伝わり方方が変わってくる。言葉の音も同様に響きに差があるが、メロディを奏でる楽器に比べると弱い。だが、それを歌う人の表情なんかは情報にもなるかもしれない。そして、仮に耳が聴こえなくとも、歌詞の言葉から連想されるものは、個人の想像力というファクターはあるものの、そう変わりはしないだろう。

耳が聞こえなくとも、音楽は楽しめる(のかもしれない)。

重低音は振動として感知しやすい。その音圧と歌詞を読んでその意味が分かれば、耳を塞いでいても音楽は楽しめるのかもしれない。いや、きっと楽しめるのだろう。

また、耳が聞こえないからこそ、そこに手話という別言語を織り交ぜることが出来る。歌詞とそれに合わせた手話、聴こえなくとも広がる世界がそこにはあるのだろう。そういう世界を広げる手法、これを手話歌というそうだ。


先日、偶然これを間近で見せてもらった。それまで私はそんなものがあることを知りもしなかった。

私が触れたのはどちらかというと健聴者向けの手話歌だった(らしい)。詳細は書けないのが残念でならない。


私は、メロディと歌詞から映像をイメージしながら音楽を聞くことが多い。メロディから感じた印象と歌詞の印象を結びつけるという作業だ。情報は基本的にここから得る。

健聴者向けの手話歌というのは、ここにさらに手話による意味を付け加えることができる。

例えば

“雨が好きです 雨が好きです
  あした天気になれ”

『あした天気になれ』作詞:中島みゆき

聾の人の場合、この曲を楽しむ場合は歌詞を見ることになる。(本当は前後の歌詞を読めば情景はイメージできるのだが、今回はわかりやすくこの部分だけ切り取ってみる。)
1行目と2行目の歌詞の繋がりをどう解釈するかは人によるだろう。

健聴者の場合は、ここにメロディや歌声という情報が入ってくるので、ややイメージの方向性は整ってくるだろう。

ここでさらに、手話という別言語で意味を与えてやることで、そのイメージはより鮮明になっていく。あるいは手法として、歌詞とは全く逆の意味を与えることもできる。表現の幅が広がる。

こんな具合だ。
(私は、手話をしらないので正確な表現ではありません、あくまで例です。)

「雨」という手話の動きを、頭よりも高い位置で行ってから、顔の眼に近づけて、雨が降って流れる様を涙が流れる様とリンクさせるような動きにしてみる。そして、「天気になれ」という手話の動きをしながら上空を憂いの表情から微笑みの表情に変化させながら見上げるような動きをする。

こうすることで全く違うイメージにならないだろうか。

健聴者向けであれば、歌詞の言葉を直訳的に手話に直す必要はない。だから、オンタイムで新しい言葉の意味を付与できる。英語のリスニングが得意な人が、映画を英語で観ながら日本語の字幕の表現を楽しむような、そんな楽しみ方も出来るのだ。

もちろん、歌詞の直訳でも表情や手の動き一つで違う印象を与えることも出来るだろう。ダンスに近いと言ってもいいかもしれないが、ダンスよりもその手や顔、視線の動きに手話という共通の意味が与えられているという点で表現の伝達力は優れている。優劣を決めれるものではないが、ともかく、手話を織り込むことによって表現の幅がぐんと広がるのだ。


数曲披露してもらい、私は感動した。ので、公演後質問してみた。


パフォーマーの方いわく、英語の翻訳に近い感覚で手話(の、どの単語を使うか)を選んでいるそうだ。直訳してもいいし、前後の文脈から汲み取って意訳してもいいし、健聴者向けなら大きく改変しても音楽のイメージが合致するならアリだそう。なんだそれ、面白すぎる。

ポップなメロディに、悲しげな歌詞、機械っぽい手話の動き、なんていうのも作ることができる。全てを理解していてこそ分かるハイコンテクストな曲も作れるかもしれない。

メロディも歌詞も手話等の動作による表現も、それぞれ独立して楽しむ事もできる。でもそれを敢えて同時に奏でることで広がる世界、多重奏。

とても良い経験ができた。



何も例示しないのもなんなので、ひとつだけご紹介。ラスサビの“雪が溶けても残ってる”の部分、どこに残っているのかがよく分かります。


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