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noteの「あなたへのおすすめ」は世話焼きおばさん的な。

 午睡へと誘うような柔らかな風が吹いて、大切にしまっている記憶の引き出しの中で、少しモヤがかかったままだった部分が晴れたような気がして、ちょっと引っ張り出してみようかなって思って。




 以前、毎日更新されていて日課のように読み続けていたのに、突然アカウントを消してしまった方がいて、その方の数多あった記事中にこんな感じの記事があった。

『フォロワー包囲網』と
『友達の友達の輪は友達か』という二つ。

 実際にこんなタイトルだったかは正直覚えていないし、記事をアップしたタイミングも少し外していたような記憶もあるけれど、私がそれらの記事を読んで感じ取ったのが『』のようなものだ。そして、その二つはリンクしているように感じられた。書いた本人は言及していなかったが、本当に書きたいことを上手くぼかして伝えることに秀でた人だったので、きっとそういうことだと思っている。
 コメントしたかったけど、まさに私自身がその人にとってどちらの記事にも該当しそうな立ち位置だったため憚られた。まだ関係を構築していこうという段階だったので、その一歩を踏み込まなかったことを覚えている。

 内容に関しては、アカウント消失と共に消えてしまっていて確認できない。ので、雰囲気とテーマだけ拝借して後は私の文章にしてしまおう。全然違うよ!ってツッコミが入ることはないだろうから。


 noteのおせっかい機能。あなたへのおすすめ記事や、フォロー/フォロワーの方のフォロー/フォロワーを紹介してくるアレだ。これによって素敵な出逢い(人)や出合い(記事)があったのは事実で、そういう意味では本当に感謝している。私の記事なりが、どこかの誰かのおすすめに出てきたというケースもあるだろう。
 しかし、この機能の問題点はやはり偏りが生じることにある。程度の差はあれど、フォロー/フォロワーの方は、自分と似たような人をフォローしたり、似たような人にフォローされたりがSNSとしては自然な傾向である。
 人と人とのマッチング率(接点)が増えれば、そのSNSへのマッチング率(接続)は上がるのだから、開発はこのおすすめ機能のアルゴリズムの調整に血道を上げるのだ。

 さて、その結果。素敵な記事を書き続けている人ならば、ある時その偏りに気付くことがあるのだろう。新しくフォロワーになった人は、このフォロワーのフォロワーの人で、更に新しくフォロワーになった人は、このフォロワーのフォロワーのフォロワーで……という具合に、フォロワー包囲網が完成していくことに。

 ちなみにこの記事を書いた人は、その包囲網がちょっと怖い的な書き方をしていたけれど、多分面白がっていたのだと思う。(そして、その面白がっていることを読み取れる人と交流して行きたい。と、書いてあった気がした。いや、これはきっと私の願望ですね。)

 そんな記事を読んだ私はそれ以降、フォローしたいなと思った人がいたら、その前にその人のフォロー/フォロワー欄をチラリと見るようにして、包囲網の一部にならないか注意するようになった。欄に知っている名前があれば少しの嬉しさと警戒心が芽生えるようになった。
 もともとフォローを慎重に行うのは、自分の時間と手を伸ばせる範囲が有限だからというのもあるけれど、あの記事の影響も少なからずあるんだろうなと今は思う。


 フォロワー包囲網の形成に関与したくないという思いを抱えると、次なる問題が『友達の友達の輪は友達か』となる。フォロー云々関係なしに、自分が相手に好意を抱いて友達になりたいと思えば、包囲網なんて呼ばれても気にはならないはずだからだ。

 その人の記事では、リアルの友人関係を例に示して交友関係の拡がりについて考察されていたと記憶しているけれど、ネットでも同じことが言える内容であった。その中では、結論的にいくつかの可能性を提示していた気はするけど(実はほとんど内容を覚えてない)、私の見解は別にあってそれをコメントしようとして止めたはずだった。なので、ここからはその時に胸にしまったものを書いていこう。


 結論から書くと、友達の友達の輪は私の友達ではない。接点がない可能性が高いからだ。だから無闇に繋がりを持つのはやめておくスタンスだ。

 基本的に私は一対一のコミュニケーションの方が好きだ。そうでないと線が触れているだけなのか、互いの輪の中のどの程度まで重なり合っているのかが分からない。
 そして、その友達の輪のどの部分に友達の友達が重なっているかなんて判断のしようがない。

おすすめを介してnoteでも起こり得る状況



 だから私が友達に、友達の友達を紹介されてもそれはもう興味の無い他人である可能性は充分にある。そんな時私は猫か仮面をかぶる。すると友達はいつもと違う私に違和感を覚える。(そして、違和感を覚えてくれる人のほうが好き。)

 家の顔。仕事場の顔。大人の社交場の顔。友達といる時の顔。noteでの顔。Aさんといる時の顔。Bさんといる時の顔。……etc
 全部違うのだ。

 ベースとしての自分自身というのはある。けれども、相手に合わせて調整したいのだ。その調整とは、noteで言えば文章の読み解き方やコメントの書き方やスキの押し方などなど多岐にわたり、決して簡単な事ではないので、関わる人は私のキャパシティ的に少ない方が良い。自分のスキ欄は混乱を生じさせやすいので早々に非公開にした。読んでる記事がバラバラすぎるから。

 この考えを進めると、(私の判定による)同じ属性や同系統のコミュニティとの接点数は少ない方がよい、となる。同コミュニティ内に私を知る人が多いとそれはそれでやり辛くなる気がするからだ(自意識過剰なきらいがあるのは自覚している)。

 たとえば、料理が好きだからといってお料理コミュニティの人を片っ端からフォローして関わっていくことなんて不可能だ。というかしんどい。それだったら、和食とか洋食とかのカテゴリーで最も気の合いそうな一人を選びたい、ということだ。先述のフォロワー包囲網になるべからず。という思いも働くことで、フォローする人が少なくなるのは当然なのだ。


 価値観が揺さぶられたり、思考を刺激してくれる記事を求めて私はnoteで他の人の記事を読む。そういう意味では、フォローしている方は(私の判定による)属性やコミュニティの、私専用の窓口役を担わされているともいえる。記事や考えに触れることで、自分の思いに気づいたり思考の世界に飛び込んだりさせてもらっている。利用しているようでごめんなさい。いつもありがとうございます。これからもよろしくおねがいします。


 noteの世話焼きおばさんは本当に優秀で、油断すると好きになっちゃう人がどんどん増えるので困りもの。

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