負けず嫌いって、どゆこと
負けず嫌いという言葉がある。意味は知っての通り。
この言葉に違和感を覚えたことはないだろうか。文字そのままだと意味が逆転している感じを受けたことは無いだろうか。この「ず」は一体何だということである。
というわけで、ちょっと考えてみよう。軽い気持ちで読んでくれて大丈夫。というか、私が深く考えていない(考えられない)から。
まず、推量の助動詞「む(むず)」による解釈。
こちらは、言葉の意味の成り立ちから変化を想定したものであるので、個人的にはこの捉え方が正しい気がする。
「我、負けむとすることを欲す」
わたしは負けようとしている=負けたい
「我、負けむとすることを欲さず」
わたしは負けようとしたくない=負けたくない
「我、負けむとすることを厭う」
(むとす→むず→ず と変化して)
「我、負けずを厭う」
「我、負けずを嫌う」
わたしは負けようとすることを嫌がる=負けたくない
「負けずを嫌う」を名詞化して
「負けず嫌い」となった。
筋は通っている気がする。
打消の助動詞「ず」ではないと私は考えている。似た言葉に「食わず嫌い」というのがあるが、こちらは打消の助動詞である。しかし、「負けず嫌い」とは別物であることは解説不要だろう。
次に「嫌い」に注目してみよう。
前提として、日本語あるいは日本人的気質として、自分のことを語る時はへりくだるきらいがある。
そう、この「きらいがある」は「嫌いがある」と書くのだ。
「きらいがある」とは、〜の傾向がある、〜の場合がある、といった意味だが、ニュアンスとしては好ましくないものを説明するときに使う。それもそうだ、「嫌う」というネガティブな言葉がその語源であるからだ。
つまり「負けず嫌い」は、
「ず」を推量の助動詞的な解釈で言うと、
「負けようとする傾向がある」となり、これはいわゆる「負け惜しみ」というやつだ。
打消の助動詞的な解釈で言うと、
「負けない場合がある」となり、これはストレートな物言いで、力強さはあれど現実を見れていないという幼さも窺える。
そしてここで、「負けず嫌い」という言葉の使用状況を考えてみる。実はこの言葉を使おうとしている時点で既に負けているのだ。
つまり、勝者に対しての敗者のポジションでこの言葉を使うのだから、日本人的気質によるところのへりくだる感覚で言うならば(勝者を敬うならば)、打消の助動詞的な使われ方はあまり受け容れられるものではなさそうである。
よって、個人的には推量の助動詞が変化した説を推す。まあ、既に定着している言葉であるのでその語源や変化を辿ることに対して意味はないのだが。
あ、ちなみに「負け嫌い」とか「負けじ魂」とかが混ざったり変化したという説は、美しくないから否定したい。私は“醜からず嫌い”なのだ。
※
大丈夫です。
(勝手に勝負したつもりになって)ボロ負けしすぎてぽてじんになって、こんな文章を打つくらいしかできないだけです。
やる気が出たら解法の続きを読もうと思います。
(ゲーム自体はわくわくします。ただ、宝探しゲームで一番に辿り着けなかったのを悔しがるような幼稚さが表出してきただけです。こんな感情いつぶりだろうか……)
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