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溢れないし こぼれないけど 掴めもしない そんなもの

※直接的な表現はないですが、感じやすい方は読まない方がよいかもしれません。



昨日の昼間、たしか丁度12時くらい。妻と二人街を歩いていた。選挙の街頭演説が聞こえてきた。候補者が直接喋っている。台も使わず聴衆と同じ目線でいた。人だかりはまばらだった。2mくらい離れた所を私達は歩き去った。「選挙ポスターより、小柄に見えるね」と妻が言った。物理的な距離感の近さは、心理的なものにも影響するのかな。かけよれば1秒もかからない距離だった。無防備だったようにも見えた。

その後、13時前くらいに妻と昼食にパスタを食べた。料理が来るまでに開いたニュースアプリから件の銃撃事件を知った。私も妻も情報量が少なすぎるからと、特に感想を持たなかったが、結末は容易に想像できたので「大変になるね」くらいの言葉を交わしたと思う。パスタの味はいつもと変わらなかった。

少しだけ情報が出てきた。といっても全然足りないが。いや、実を言えば情報が出揃ったところで私の関心は被害者と犯人やその動機には向かない。私が考えたことはもっと別のことだった。

私は、私の愛するもの以外への興味は薄くなりがちだ。そんなことは普通のことだ、とよく言われるが、たぶん、感覚としては正しく伝わっていない気もする。

ここからは不快にさせてしまうかもしれないので、お読みになる際は自己責任で。




救命処置にあたり、大量の輸血が行われた。
→感染症による献血量の低下が問題になっている状況だそうだよ。助かる見込みがあったんなら、構わないんだけどね。

民主主義の根幹を揺るがす事態だそうだ。
→政治犯と決まったわけじゃないのに、その断定は早すぎないかな。というよりさ、やっぱり肩書こそが本体だと皆思ってるってことかな。ま、いいんだけど。

警備体制が問題視されている。誰かが”責任”をとるんだろうね。
→不幸な人を増やすことで、一体誰が溜飲を下げるんだろうね。その溜飲は血の味じゃないかい?

対策として警備体制を今後強化するかもね。
→血を流さないために、国民の血税を垂れ流すのかもね。否定はしないし、好きにすればいいよ。

しばらくは、この報道ばかりになるのかな。
→それって有益なことなのかな。


怒ったり、悲しんだり、怯えたり、憂いたり、そういった感情は出てこなかった。事象に対する人々の反応だけが気になった。

(あーでも、もしかしたらこんな風に考えていること自体が影響を受けているといっても良いのかも知れない。なんせ、一日経ってから普段つけない日記をしたためるくらいだ。)

街頭演説をしていた候補者の、妻が小柄と称したその人が、どんな格好で何を喋っていたかももう覚えていない。2mの距離は私には遠いんだなと思って、側で寝息をたてている娘を抱きしめながら寝た。

深夜に目を覚ましてnoteを開き、コメントの返事を書いた。物理的な距離はわからないけど、こちらのほうがよっぽど”近い”。


私の手は短いからさ。妻と娘と、そのくらいの距離しか掴めない。それを悪いこととも思わない。

遠くを見たり、上を見上げるのがしんどくなったら、手の届く範囲だけ大切にしていこう。と、そんなことを思った。


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