[掌編小説] 地下鉄にて
夕刻、地下鉄待ちの列で、眼の前に並んでいる中年のおっさんの首の後ろに、0から10まで目盛りの刻まれた黒いノブがついているのが見えた。
はてスーツ姿のおっさんの首にノブとは一体、と、そのベークライト風の渋い艶を放つノブを観察してみる。古いフォントが刻み込まれ、白い塗料が流し込まれた目盛りは現在1で、ゼロでないところに意味があるようなないような感じだ。俺は真空管式マーシャルアンプのように掌でノブをギャリッ! と全開にしたくなる衝動を抑えるのに必死だった。
そんな俺の熱い視線を感じたのか、ノブのついたおっさんはくるっとこちらを振り返った。ひょっとすると興奮した俺の鼻息が首筋にかかって不快だったのかもしれない。
「おや、このノブが気になりますか」
おっさんは丸メガネの奥に涼し気な目を細めながら言った。
「ええ、とても気になります。それは一体何のノブでしょうか」
日本語教師に褒められそうな構文で俺が答えつつ尋ねると、おっさんはこともなげに答えた。
「感度です」
「感度?」
俺はまたおっさんが性的な意味でそういうことを言っているのかと思い、おっさんがスーツの下に変態的な衣装や縄を装着しているところを想像し、思わず3センチほど体を後ろにのけぞらせたのだが、おっさんはいえいえ、とかぶりを振りながら説明を始めた。
「いかがわしい意味の感度じゃありませんよ。どちらかというとこれは、想像力、共感力という意味での感度です」
「ほう」
精一杯賢そうな相槌を打って続きを促す。
「この目盛りがゼロの時、私はサイコパスの状態になります。例えば怪我をした人を目にしても『痛そうだなあ』などといった共感を示しません」
「それは……恐ろしいといえば恐ろしいですが、時に便利そうでもありますね」
「そう、人間誰しも感じすぎて辛いときがあるでしょう。誰かから人生相談を受けて、下手に相談するの人の語りが上手かったりすると、当人以上に問題を深刻に捉えて辛くなって、こちらの生活に支障が出たりする。そういう時はこの感度を下げるのです。健康な人の通常の状態が目盛り5になるように作ってありますから、4とか3とか、ちょっと下げると健康的に相談に乗ることができます」
「じゃあ今、その目盛りが1になっているのは?」
「ええ、これは感度が高ければ高いほど、公共の場では目にするものが多くて疲れるので、ほとんど何も感じないように感度を下げているのです」
おっさんはそう言いながらちらりと横を見た。おっさんの視線を追うと、隣の列で同じように地下鉄を待っている40代と思しき女性に行き当たった。
女性は生活の疲れがモロに顔や佇まいに出ていて、さして感度が高くない俺が見ても心配になるくらいだ。血色は悪く、髪はほつれ、手もボロボロの状態で荒んだ暮らしを想像させた。くたびれたカーディガンもよれよれであちこちほつれてしまっている。ただ立っているだけでも彼女にとっては重労働といった感じで、何か病気にかかっているのかもしれない。
たしかに通常以上に感度が高いと、そうした辛そうな状況の人を見る度に、ハラハラして疲れてしまうだろう。何が出来るわけでもなし、また同時に、相手のために何かしたところで有難がられるとも限らない。
「ということは、感度が高ければ高いほど、人には優しくなりますが、得をすることはあまりないんじゃありませんか?」
俺がおっさんに尋ねると、おっさんは初めてニヤリと笑って、首の後ろのノブを指先で撫で回した。
「ええ、そうなんです……あまり大きな声ではいえませんが、私はこのノブを取り付けてから、2以上に回したことがありません。そのおかげで出世しています」
そこへちょうど、大きな音を立てて地下鉄がプラットフォームに滑り込んできた。ノブのついたおっさんと俺はその後、特に会話を交わすことも視線を交わすこともなく、それぞれの家路についた。