#1.月を切った日
私は、何も持っていなかった。
正確にはスマホとシャーペン、お気に入りの厚切りホワイトチョコラスクと星になり損なったらしい石ころをひとつ。なんだ、暇をやり過ごすには十分そうに見える。
けれど、私の頭は絶え間なく湧き出る不安と焦りに振り回されていて、身体はいつだって暇を持て余しているのに思考ばかりがぬるい長距離走を繰り返す。息を吸っても吸っても酸素の海に溺れていくあの絶望感が嫌いだ。あまりに苦手なので、長距離走が定番になる冬の体育をいっそサボってしまえと保健室へ逃げ込んだことがあった。まあ、先生に蹴り出されて未遂に終わったのだけど。
思えば、あの時分はとても楽だった気がする。
「いいですか、綺麗な月を作りましょう。君たち自身の明るい未来のために、そうするのです」
彫刻刀によく似たナイフを渡され、教室で各々余分なものを削ぐことに夢中になった。学期末の試験では「今回もよくできていますよ」とリボンを掛けられ頬を熱くした。
十余年、大学生になった私は綺麗な月を手にリクルートスーツ姿で懸命に口を動かしていた。この月を携えて、今から私は世に出てゆく。そう、世に出て行く__本当に?
理不尽な濁流を生きていける確証が欲しくて、抱えていた月を半分に切った。
私の月は空洞だった。
いやあ、空っぽか、困ったな……どうしよう。涙は出なかったが、日向に居るのが辛くなった。
月を捨ててリクルートスーツを脱いでから、長いこと陽のあるほうとは別の方角を見つめている。スマホから垂れ流しているゲーム配信の合間に、コマーシャルが「人生は一度きり」と朗らかな声で唄う。やめてよ、そんな重たい言葉を投げてこないで。前向きなスローガンがすれ違いざまに皮膚を刺していっても、私は傷が瘡蓋になるまで体を丸くしてじっと待つしかなかった。
「一緒にやりませんか」と真っ新なノートを差し出されたのは最近のことで、表紙に『公開交換日記』とだけ書いてあった。
「他人に読まれても大丈夫な交換日記的な」
随分懐かしい響きだ、弾む思い出もほろ苦い思い出もある。
「楽しそう」
だけど、ちょっと怖いかも。
月を切って以来、鉛色の中で過ごしてきた私には、ノートの白地に反射する柔らかな木漏れ日さえ眩しかった。まだ歩き出せない空っぽの自分が紡げる言葉はあるのだろうか。
シャーペンを握り、ノートとお別れするつもりでページの端に一本線を引いた。思いのほか書き心地が良くて、試し書きのつもりでもう一本、あと一本だけ。気づけば一行の文章ができていた。まったく下手くそだな、と自分へ毒を吐かずにはいられなかったが、たった一行でも何かを書けたことへの驚きのほうが大きくて念のため腕を抓ってみた。痛い。
「夢中になるとか久々だなあ」
月はもう作らない、逃避行の羽はまだ手放せない。何処へも行けないし行く勇気もないけれど、文字を綴るこの感覚には真摯でありたいかもしれない。
私が持っているのは、スマホとシャーペン、お気に入りの厚切りホワイトチョコラスクと星になり損なったらしい石ころをひとつ。ゲーム配信の重なる笑い声を聞きながら、廻ってくる交換日記を待っている。二人はどんなことを書いて、私は次にどんなことを書きたいだろう。
星になり損ねたはずの石ころが、その時初めて「ぱちり」と鳴いた。
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