バフチン:生きることとしてのダイアローグ 1

対話主義とはなんであろうか。

バフチンについて書かれた、桑野隆著の「生きることとしてのダイアローグ」を読みながら、自分の理解やメモを書き起こしていきたいと思います。

話が複雑なので、章ごとにメモを作っていきたいと思います。この本は、各章のタイトルが既にインパクトのあるタイトルとなっています。

第一章 対話的人間 

1.1「私は一人で生きている」という幻想

バフチンが言う「対話」とは、もっと「対話」をした方がいい、最近「対話」が足りていない、という「対話」ではない。互いに向き合って話す、と言うことだけを示して「対話」とは言っていないのである。

私たちは「対話」がないことについて、別に「不自由」さも、「不自然」さも感じないのではと作者は指摘します。その感覚はわかります。私も「対話」をイメージした時、その感覚を感じます。なくてもそこまで困らないのではないかと。

以心伝心がある日本人にとって、何でもかんでも話す必要性を感じていない、だから対話がなくても「不自由」ではない。西洋文明では存在は個から始まる、思考もあくまで個が源である、だから仮に個と個をつなぐやりとりがなかったとしても、対話がなくてもそこまで「不自然」ではないということにもなる。

バフチンはこの考え方とは完全に一線画する考え方を持っている。

「一個人としてあるよりさきに、個人と個人の相互関係があるという考え方」と説明されているが、これが実にわかるようで、まるでわからない。「生きていることは、対話しているということ、あるいは逆に、対話しているということが、生きているということ」だ、というわけだ。(p8からの引用)

これは個人がいて世界があると考える個人主義的考え方からすると、まるで見方が違うということになる。私たちは個人である前に、関係性の中にそもそも存在するということを言っているのだ。これがバフチンの対話を理解する上での前提となっている。

バフチンは、私たちにとって対話が自然の状態だと指摘する。

私たちは個が出発点となる見方に慣れひたしんでいる。だからバフチンの言う、私たちは対話的関係性に生きているということが見えないと思われる。

私たちは一人で考える傾向があるが、それをバフチンは「不自然」だと言う。

個人主義的、世界を認識する視点を個の存在、個の思考から始めようとするのとはまるで違う視点で、バフチンが対話主義の視点を語っているということが伺える。

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