ヘイスティングスストリート~かつての中心街はなぜカナダ1番の貧困街になったのか~ 前編
カナダ西海岸に位置する都市バンクーバーは、近年日本人の留学先として人気を博している。人種的多様性や治安の良さが日本人を惹きつける大きな魅力だろう。
しかしそんな治安のよいバンクーバーにも、安易に踏み入ってはいけないエリアがある。それがイーストヘイスティングスストリート(East Hastings Street)という通りだ。
そこには異様な光景が広がっている。通りを埋め尽くす路上生活者。薬物でラリった通行人。数少ない商店はほとんど全てが鉄格子を備えている。
BC州全体の通報の7%がこの狭小なエリアに集中していることからもその異常性がとれる。また、このエリアでは不安定な配合のドラッグが安値で流通していて、路上生活者が頻繁にオーバードース(過剰摂取)を起こし救助が呼ばれる。
夜のストリートには、犯罪を取り締まるパトカーと薬物乱用者の救護に向かう救急車のサイレンが入り乱れている。
さらに驚くべきことに、このストリートはバンクーバーのダウンタウンから数百メートル目の前に位置する。そのあまりの雰囲気の違いは、異界が隣接しているかのような感覚を抱かせる。
その惨状から「薬物中毒のメッカ」、「Canada's Poorest Postal Code(カナダで最も貧しい郵便番号)」の異名を取るほどのストリートだが、一体どのようにしてこの惨状に至ったのだろうか。
皮肉なことに、100年前のヘイスティングス一帯はバンクーバーで一番栄えた中心街であった。
この記事では、ストリートがどのようにして発展と衰退を経験し、カナダ一番の貧困街になったのかを歴史を振り返りながら紐解いていく。
※以下ではイーストヘイスティングスストリート及びその周辺のエリア(Downtown Eastside)を「ヘイスティングス」と総称する。
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ヘイスティングスストリートの盛衰
バンクーバーの中心街
1900年代初め、バンクーバーは北太平洋の重要な港の一つであった。太平洋からの蒸気船とアメリカ大陸横断鉄道の終着駅を結ぶ場所にあったヘイスティングスは、旅行者の寝泊まりするホテルや下宿屋で大きく賑わった。
さらに当時のヘイスティングスには、市庁舎、裁判所、銀行、商店街、カーネギー図書館(下写真の左にあるドーム屋根の建物、現:カーネギーコミュニティセンター)といった都市機能が集中していて、バンクーバーの中心街を担っていた。
太平洋の窓口であったバンクーバーでは、アヘン等の薬物の輸入がさかんに行われており、ヘイスティングスの歓楽街では薬物が旅行者の楽しみの一つとなっていた。
衰退の始まり
しかし、1911年に西側のジョージアストリートに地方裁判所(写真)が新設されたことを皮切りに、商業の中心地の西側への移動が始まる。
余談だが、上写真の建物は現在も形を変えず存続している。お気づきの方もいるかもしれない。
そう、バンクーバー美術館(Vancouver Art Gallery)だ。1983年に裁判所は美術館へと改装された。撮影時はオノ・ヨーコ展が開催中であった。
そして、ヘイスティングスの衰退を決定づけたのが路面電車の廃線であった。
路面電車は機関車よりも安価な乗車賃で細かく停留所が配置されていることから、市民の交通の要(かなめ)となっていた。
しかし利用者の減少により1938年に廃線となったことで、グランビル通りやロブソン通りといった現在も栄える西側地域への中心街のシフトが加速し、ヘイスティングスストリートは衰退していったたのだった。
世界恐慌を経て残った地域性
1930年代の世界恐慌の影響で、大陸横断鉄道の終着駅でもあったバンクーバーには多くの失業者が職を求め集まっていた。
世界恐慌が終息した後もそのような労働者の内、傷病者や年配者は家賃の低いヘイスティングスに留まった。
かつてホテルや下宿屋が栄えたヘイスティングスには、SRO(Single Room Occupancy)と呼ばれる、宿泊施設の一部屋をワンルームに改装した集合住宅が現在も数多くあった。家賃が非常に安価で、低所得者がメインの住民層だ。
ヘイスティングスは社会的逸脱者にとって偏見の目が少なく住み心地の良い場所だったこともあり、多くの貧困層や社会的弱者を惹きつける地となっていった。
実際に、1970年代には州政府による精神病院の閉鎖で追い出された精神病患者達が低所得者でも住めるコミュニティを求め、多くがヘイスティングスに住み着いた。
彼ら貧困層にとっての主な娯楽は飲酒であり、ヘイスティングスにはバーや売春宿などの遊興施設や低所得者向けの住宅が密集する、ネオン街とドヤ街の特性を持つ地域となっていった。
※ネオン街:ネオンサインを掲げる酒場や遊戯場などが多く建ち並ぶ区画。夜に人通りが多くなる歓楽街。(※goo国語辞書より引用。)
※ドヤ街:日雇い労働者などの泊まる簡易旅館が多く集まっている地域。(※goo国語辞書より引用。)
カナダ1番の貧困街になるまで
Expo86の悲劇
1986年、バンクーバー市制100周年を機に、Expo86(バンクーバー国際交通博覧会)が開催された。日本でいうところの万博(ばんぱく)だ。
バンクーバーを眠れる田舎町から世界的な都市へ変貌させたとも評価され、都市発展の礎となったこの一大イベントの裏側には、深い闇が広がっていた。
Expo86で世界中から訪れる観光客を収容するため、ヘイスティングスではSRO(低所得者向け住宅)として営業していた宿泊施設が、急激に家賃を上げ、住民に実質的な立ち退きを迫っていた。中には1週間前に立ち退きを言い渡すようなケースも珍しくなく、市政もそのような不当行為を野放しにした結果、短期間で延べ500人以上が立ち退きを余儀なくされることとなった。
このような現住民の立ち退きを伴う地域の高級化はジェントリフィケーション(Gentrification)と呼ばれ、現在も問題となっている。
住居を突然失った低所得者達の一部は路上生活者となり、この立ち退きはホームレス街である現在のヘイスティングスを生む大きなきっかけとなった出来事といえる。
観光の盛況と共にドラッグの流通も広がり、これもまたヘイスティングスに根深い問題を残すこととなる。
ダウンタウンの発展に取り残されるヘイスティングス
1980年代、エキスポの追い風を受け開発が進んでいたバンクーバーでは大規模ショッピングモールブームが到来していた。1984年にはパシフィックセンターはカナダで最も成功したショッピングモールと称揚され、1986年にはメトロタウンにモールが開業した。
しかしヘイスティングスはこれらの地域のブームにより大打撃を受けた。ショッピングモールに顧客を奪われ、閉店ラッシュが起こったのだ。
ストリートでは悪夢のようなドミノ現象が起こった。モールに客足を持っていかれた商店が相次いで閉店し、その商店から食材を調達していたレストランが閉店し、商業衰退の結果、近隣の商店を支える銀行までもが撤退してしまったのだ。
ストリート沿いの店先の空室率は1976年には4%であったが、2001年には43%にまで増え、ヘイスティングスはシャッター街になってしまった。
さらに、閉店してできた空白地帯にはドラッグディーラーが流入し、ヘイスティングスの治安は悪化の一途を辿っていった。
このように、エキスポをきっかけにバンクーバーが世界の注目を集め急速に発展していくのと対照的に、ヘイスティングスはバンクーバーの発展の業を一挙に背負う形で衰退していったのだった。
~前編終~
最後まで読んでくださりありがとうございました!
書ききれなかったので、1990年代~現代は後編として出します。後編では悪魔のドラッグ「フェンタニル」の影響やバンクーバーの福祉のあり方を主に扱う予定です。
参照
https://en.wikipedia.org/wiki/Downtown_Eastside#History
https://604now.com/vancouver-downtown-eastside/
https://en.wikipedia.org/wiki/Expo_86#Pavilions
https://www.canadashistory.ca/explore/historic-sites/saving-skid-row
https://en.wikipedia.org/wiki/Woodward%27s_Building
https://www.learningexchange.ubc.ca/files/2010/11/overviewdtes2016.pdf
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