上巻はダルいので感想なしで
だって何も面白く無い話を永遠と聞かされてそのお陰で今まで読み終えることができなかったんだもん
確かにタイトルに『告白』とある以上何らかの告白はなされなくてはならないんだろうけどさ
あれはむしろ人に話したところでね‥‥って内容なのでむしろ『独白』とかで良かったのではなかろうか
まぁ感想は人それぞれなんだろうけど少なくとも私にはキツい以外の何者でも無かった
ニートと言っても暇ではないのだ
というわけで下巻の話になるが私キリスト教徒を舐め過ぎてた
というのも神や神の子が言うことについては無批判に信仰をする人々だと思っていたから
失礼ながらまさか肉付けする事が出来る様な人々だとは全然思っていなくて目から鱗
そりゃ科学が進んで科学との整合性が取れなくなった時点でそれらの主張は止揚するよね
その時点で舐めてたすみません
時間の在り方についての考察はとても良かったし確かにそうなのかもしれない
当時時間とはどの様に考えられていたのかこの考え方はむしろ別段特別なことではなくむしろ一般的なものだったのだろうか
ただそれは数多の旧約聖書からの引用を用いてはいるがどちらかと言うと教義解釈というよりやはり思想の領域の様な気もする
要するに教団としての共通解釈ではなくて独自のものなのではないかと
とは言え私は旧約聖書を読んでいないので案外共通の解釈なのかもしれない
今まで言わずにいたが今回はあまりに疲弊してしまったので一言言いたい
結局最後の解説を読んでおけば良いのでは?と
もちろんダメな理由も思いつく
しかしこれだけのストレスを受けながら読書しほとんど頭に入らないのならば解説文を何度か読んだ方がみになるのではと
ここまで無理して読んできたのは最低限登らなくてはいけない山の一つとして挙げられていたためだ
この先には共産主義者ですら読んでるのか怪しい『資本論』も控えている
最早意地でしかない
結局学者でもなんでもない一般人がこれらの哲学書を読んでもこの程度の感想しか持てないしそれも仕方のないことだと思う
もちろんテキスト側の問題も色々あると考えているが
いづれにしても名著だと言われている様な書籍だからと言って自らも同様に名著であると評価しなくてはならないなんて事はないのだとこの度は思った
名著であるという前提でなされる読者はむしろ不健全なのだろう
そうつまり私にとってはただの退屈な告白でしかなかったのである
優れた感想や批評など書けないそれで構わないのである