ヌース雑記
残念ながら日本の仏教徒は永遠に悟る事が出来ない
何故なら権力の構造のみがありグルを喪失したためである
また戒律の権威によって悟りについて語る事さえ迂闊に出来なくなってしまっている事も一因である
その結果為される努力と言えば言葉や動作、シンボルの意味を丸暗記する事になってしまった
これは当然事相に重きを置く者であっても事情は同じことである
どこまでもパターン化した人間型ゲシュタルトから抜け出すこともできず永遠と暗記することのみを繰り返している
結局のところ事相をやっているつもりであっても丸暗記と変わらない
深い三昧に入って修行をしていると反論したい人もいるのだろうが結局のところそれで良いのかを評価するグルは不在なのである
また自分が出来ていると思えば出来ているのだという主張もあるが今度はその出来という評価を下している自分自身が魔境の内にいるのか外にいるのか判断する事が果たして可能であるのかという問いはグルが不在である以上やはり解決していない
識が智に転ずることを転識得智といいこれは悟りであるがこの識と智の持つ差異でさえ満足に回答できる行者は多くない
例えば前五識転じて成所作智となると言うが人は五識を正確に把握してすらいないので次に進むことがそもそも不可能なのである
というのも転じてという言葉の意味を識に何かが加わり未知の超越論的な何かに変化するかのように解釈してしまいまさか対立する2組(あるいは4組)の識が止揚して両者の対立を乗り越える事を意味しているのだとはめるで考えないのである
そういう意味では人間の視野空間の表裏の対立を乗り越えその行為自体をよりメタに評価出来る立場にある次元観察子ψ5とは成所作智の一側面であると解釈しても良いだろう
とにかく理の暗記ばかりで智を理解しないのであればそれはどこまで行ってもどちらも理解していない事と同じである
仮説ではあるが金剛界は奇数系胎蔵界は偶数だと思われる(トング=種字、トンイ=三昧耶行みたいな?こちらもまだまだ仮説)
意識高い系の僧侶は怒り心頭怒髪天かもしれないがグル不在である以上なんらかの方針が無ければ修行する事さえ出来ないのではなかろうか
ここに記した事はこの様な方針は如何であろうかという提案である
使うも使わぬもの自由であるがヌーソロジー的観点においては結構有りなのではと個人的には思っている