雨の日の音。臆病さとは一体なんだ
臆病さ、とはなんなのだろうか。
臆する病とは、なんなのだろうか。
雨が降り、肌寒い風が吹く日に、傘を刺し、雨風を凌げる場所へと身を投じる時、僕はふと思った。
臆するというのは、
気おくれする、恐れる、おどおどするいった意味だ。
あるいは、勇気がないと言い換えられるかもしれない。
臆す人と臆さない人とは、一体どんな人なのだろうか?
臆す人は、どんな痛みからも逃れようと必死に両手で盾を持つ人なのだろうか。
臆さない人は、どんな言論でも一刀両断できる鋭い剣を持ち合わせる人なのだろうか。
それとも近寄らずしても、相手を打ち負かす拳銃を持つ人なのなのだろうか。
いいや、
両手に何も持たず、抱擁へと歩を進める人なのだろうか。
寺田寅彦が訴えた自然とわたしたちの関係性。
柳田国男が訴えた死者とわたしたちの関係性。
セネカが訴えたわたしの生と時との関係性。
池田晶子の訴えたわたしたち自身との関係性。
そして、
写真家 橋口譲ニが訴えた他者の存在との関係性。
生きるということの謎と生きているという事実。その裏にはわたしたちを生かすなにかの存在があるということ。
わたしは知りたいと思う心が自分を満たすのと同時に、知ることの恐れをひしひしと感じている。
批評家・文筆家の若松英輔さんが云うように考えるということは、辛抱することかもしれない。
辛抱とは、我慢ではないのだ。
辛いけれども、大切なものを包むようなものなのだ。
呼吸をゆっくり深く吸ったり吐いたりするように、考え、時を深く生きていきたいと思いました。
きっと私は臆病者の類であると自分で自分を見ていますが、自分にとっての臆病という言葉の意味を知らなくてはいけません。
こんな雨の日だから聴こえる音にそっと耳を傾けたくなるのです。
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