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恩師のはなし

わたしは、小、中、高、大とバスケ部だった。
高校の時の監督は男性で、わたしたちと年がそんなに離れておらず、親近感もあった。元国体選手だった。
わたしたちは田舎のへっぽこ集団だったが、みんなバスケが好きだった。
トレーニングはそれはそれは厳しくて、ついていけない子はボロボロやめていった。
わたしは毎日の練習で、できないことができるようになるのが嬉しくて、実家の壁にゴールを取り付けてもらって、夕飯の後コソ練していた。

わたしは、大学へは行かず、実業団に入りたかった。誰にも相談はしなかったので、どうしたらなれるのかさっぱりわからなかった。でも当時の夢は、実業団に入りたい、だった。

3年生最後の練習の後、いつものように監督の周りに円陣を作って、監督が話す時間がきた。その時、「お前たちの中で、バスケで飯を食えるやつはいない。そういう人は努力だけじゃなくてセンスや持ち合わせた体格、筋肉、そんなのがあるんだ。」と言ったのを覚えている。努力だけじゃダメなのか、、、。わたしの身長は168cm、ちびっこセンターだった。

コーチが話す番になった、コーチは、「さっき監督は誰もバスケでご飯を食べられない、って言ったけど、先生もそうだと思う。すごく難しいことなんだよ。でもね、みんなバスケット好きでしょ?だから、先生は1人でも多くの子にどんな形でもいいからバスケットと関わってて欲しいなぁって思うんだよね」と言った。

ベンチに入られなくたっていい、バスケのチームにいたい、それだけなのに、それも叶わないのか。一体どうすれば。


わたしはよく昼休みに、理科準備室へ遊びに行っていた。ちょうどコーヒーの時間だった。監督は、生物の先生をしていた。
先生達はいつも楽しく仲良く談笑していた。理科準備室は、とても居心地が良かった。
わたしはそこで思った。「学校の先生になろう!部活でバスケができるかもしれない!」とその旨をその場で伝えた。「先生!わたし生物の先生になれる大学に行くよ!」と。(科学はいつも赤点だったので)

そして大学へ進み、バスケ部に入った。
約4年後、教育実習に母校へ戻った時には、監督もコーチも化学の先生も転勤していなかった。でも、担当の生物の先生から「先生方からよーく聞いてますよ。任せてくださいね。」と嬉しいお言葉をいただいた。なんやかんやと実習を終え、さて、教員採用試験の勉強を!と思った頃には卒論の実験真っ只中で、私たちは24時間体制で待機しデータを取り解析していかねばならず、寝不足だわ、忙しいだわで、てんてこまいだった。

結局、十分な勉強もできずに試験当日になり、見事に不合格だった。
多分、勉強してたって不合格だっただろう。
大学を卒業し、浪人する形で、臨時採用を待った。監督から連絡があった。方々探してくれたらしい。「今のところ、多分これからも空きは出てこないと思うよ。だって男ばっかりで産休する人いないもん。」とのことだった。
わたしは悩みに悩んで、教師の道を諦め、ちょこっと働いたりなどして、結婚した。

しばらくして、第一子に恵まれ、7ヶ月に入った頃だった。お腹はかなり大きかった。

ある日、バスケ部の友人から電話があって、「おー久しぶりやね、体調はどう?(数週間前に出産したばかりだったので)」なんて言ってたら、友人がとても暗い声で、「びっくりさせてごめんね、監督が亡くなったと。今日お葬儀やけん、体が大変なのは知ってるけど、行ってもらえない?」とわたしは「嘘だぁ、嘘だよ」と繰り返した。
本当だった。
友人との電話を切り、泣きながら実家に電話した。母やダンナはわたしの体を気遣って葬儀に行くのを反対したが、わたしは言うことを聞かなかった。喪服に着替え、電車に乗り、斎場へ向かった。

監督の3人の子どもたちは何があったのわからないくらいに小さく、走り回っている。わたしと母は久々に会うコーチに挨拶をした。わたしのお腹が大きのにびっくりしていた。

監督は、「俺はガラスの心臓なんだ!」が口癖だった(低体重児で生まれ心臓が弱かったらしい)。審判をしている途中で倒れてしまい、また立ち上がって走ろうとして倒れてしまったらしい。AEDがない頃の話だ。心臓発作だったそう。監督が言ってた事を思い出す。「コートの上で死ねたら本望。」本当に死んでしまった。バカだ。奥さんや子どもたちを残して。 

間もなくして、我が家に長女が誕生した。毎日忙しくする中で少しずつだけど監督のことを思い出して涙することはなくなってきた。
監督は39歳で亡くなった。
気がつけば、わたし達は監督の年を過ぎていた。
先日、久しぶりに地元で友人達に会った。
「生きとったらもう定年しとーね」「てか、私たちも監督の年とっくに追い越しとるし」「あの時、お腹にいた娘が25歳よ。娘、もう結婚したとよ」と言うと、みんな驚いていた。そして「月日が流れるのは早いねぇ」などと言いながら、笑っていた。

監督、私たちはもうババアです。監督は、ジジイになれなかったのでそのままですね。
でも、わたし達ババアはいつだって元気です。

そして、私の子ども達は2人ともゴリゴリの文化系です。

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