キューカンバー
最後に実家に帰ったのはいつだろう。
今年のお盆か。20年ぶりに友人に会えて楽しかったな。
わたしだけ巨大化してたけど。
直接、顔を見て元気だよって、言ってもらえることの嬉しさを知った時でもあった。
嬉しかった。父にもお線香あげてくれて。
小学生の頃だったかな、一緒にそろばん塾に行くとき、支度の遅いわたしをお店(鮨屋)で待ってくれてる友人たちに、父は「はい、カッパまきいっちょう!」と手渡し、1本食べ終わると「はいもういっちょ!」と、わたしが来るまで延々続けていたらしい。
お線香をあげた後、友人たちが「カッパまき、おいしかったねぇ、、、」と言ってくれた。
父や母は商売柄もあるが、人をこれでもかと言うくらい、お腹いっぱいにするのがすきだった。子供も大人も。いいお酒が入ればお酒好きのお客さんに味見してもらったり。(父も母もびっくりするくらい下戸)
30年位前だったか、高校のALTの先生(外国人男性)が、裏口から入ってきて、ポロポロ涙を流しながら、カタコトの日本語で(確かわたしが通訳した、カタコトの日本語)、ホスト先のお家では「りんごと味噌汁は体にいいのよ!」とくる日もくる日も夕飯はそれだけで、もう辛いとのこと。(わたしは留学経験がないからこんなことってあるのかな)
「わかったから、何が食べたいの?」と母が言うと「ノーミソスープ、ノーアポー」と言ってみんなを笑わせていた。本人は泣いていた。「デモ、ロウフィッシュ、ダメね。ごめんなさい」「はいはい、わかったわかった。」
父が生魚以外のお寿司や茶碗蒸しをたくさん食べさせると「パパ、オナカいっぱい!アリガトウ!」母が「あら、デザートは?」と果物のもろ合わせとアイスクリームも出してあげた。(もちろんリンゴは抜きで)
「お腹空いたらいつでもおいでね。」と母が言うと、彼は「はっ」とした顔して「パパさん、オカネ、アシタデモイイ?」といった。
お財布を見せてお札が3〜4枚入っていただろうか。
父は「いっぱい食べてくれたけん今日は500円!またお腹空いたらいつでもおいでよ!」と。この時お客さんはもう誰もいなかった。父は小声で「よそのお店では高いけんね、ごめんね。」と言っていた。
それからうちの店はALTの外国人先生たちの引き継ぎ所みたいになった。
どんだけ食べても500円。日本語もかすかに上達していった気がするし、父はいつまで経っても「キューカンバー」しか言えなかった。「英語はわからんけど、誰が何が好きかはしっかり覚えとる。言っとることはよくわからんけど雰囲気でなんとかなるよ」と。それから何人のALTの方々が来たくれたんだろう。父は帰国した方ともずっとFace Bookで繋がっていて、(兄が)父が亡くなった事を伝えると、たくさんの追悼メールや写真が送られてきた。中には完璧な日本語の人もいた。
みんなに人気だったキューカンバーロールおじさん、世界中を飛び回って皆のことを今も見守ってくれていると思いますよ。
ありがとうね。
写真は店の裏手からの夕焼け
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