【141日目】架空の先祖名
ご隠居からのメール:【 架空の先祖名】
では、架空の先祖名、馬之助(1600年頃)と熊之助(1700年頃)を採用し、與左衞門さん(1800年頃生れ、1868年頃没と推定)と合わせて、わが長谷部家のファミリーヒストリー三大キーパーソンとして活躍してもらうことにしよう。
先祖名は架空の人物だが、その前後の歴史的事実、たとえば、太閤検地とか上月城の落城とか天明の大飢饉(1782年-1788年)、黒船来航(1853年)などはリアリティを与える事件として視野に入れておくのだ。
馬之助の時代は応仁の乱(1467年)からはじまった。東軍の将は細川勝元、西軍の将は山名宗全だが、興味深い事実として、備中の守護が細川氏、伯耆の守護が山名氏だったことだ。ということは、高瀬は国境に面した大乱の最前線ということになる。
その後、江戸幕府になって、日野郡は池田藩、高瀬は備中松山藩や新見藩の支配下におかれた。
馬之助が高瀬の耕作権と立木伐採権を獲得したのは、やはり武力を背景にしたのだろう。太閤検地によって武装解除されたが、その後も牛馬の放牧地をかかえて、熊之助の時代になっても武器を隠し持ち、牛馬を育てて尼子一族再興の夢は捨てなかった。
家族制度についての一つの疑問は、江戸時代には分家はなかったのだろうかという疑問だ。女の子なら嫁に出せばすむが(ふゆさんは特別扱い)、男の子は分家にしてやる必要が生じる場合もあったのではないか。それなのに明治維新の時点で長谷部氏を名乗る家が他にないというのは不思議だ。
その疑問にたいする答は、長谷川氏が周囲に数十軒あることかもしれない。松田氏は屋号が「えのく」「かみいちば」「しもいちば」など由緒ありげな家が数軒あった。あるいは長谷部家は昔から子宝に恵まれない家だったかもしれない。
返信:【Re_架空の先祖名】
馬之助(1600年)から熊之助(1700年)までは3、4代差くらいだろうから、 あいだにもう一人か二人長谷部のご先祖様がいるのかな。
明治後半の勝次郎さんから與一さん、ご隠居、自分、息子とたまたま男児が続いているけど、お家断続となる戦国期では嫡子が「長谷部(長)」を名乗り、次男以降は養子や名を変えて生きてきたはず。そう考えると長谷部一族はどこにいるのだろう。
ちなみに、山名氏が伯耆守護をしていたときに長氏という伯耆国衆が存在している。その流れから元信につながった可能性もあるね。
松田氏とのつながりも解明されていないよね。親戚というのであれば互いの家に嫁いだのか、嫁を迎え入れたのか。そもそも、親戚関係の松田伝蔵さんと大原津弥さんを結婚させて長谷部の名を継がせようと考えるくらいだ。昔の人の血族意識は相当強いね。
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