
【186日目】六親等
ご隠居からのメール:【 六親等】
「家訓」というタイトルのメッセージは、一昨日受信したメール(「米原氏高瀬移住の可能性」の文面と同じ内容ーーとのこと、うっかりしていた、ゴメン。
こちらのファイルをよく調べたら、次のような未送信と思われる内容のメッセージが見つかった。
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親族とは? 民法上の親族の定義は、「六親等内の血族、配偶者、三親等内の親族」である。先祖をさかのぼれば、六代までが親族となる。特定の呼び方があるのは、四代前の高祖父母まで、それより前は「〇世の祖」などという。わが家の場合、自分を中心に考えれば、
戸籍上の御先祖
・初代:馬之助(仮名:尼子の落人)
・中興の祖:熊之助(仮名:享保二十年歿)
・六世の祖:與左衞門
・五世の祖:弥左衛門・なか・佐と
・高祖父母:喜代太郎・伊曽
・曾祖父母:友次郎・いし・井上?・大原?・岡村?・野田?
・祖父母:勝治郎・津弥・岡村素・岡村はる
⇒(これ以後はDNAの六親等)
・父母:與一・貴美子
となる。やはり與左衞門さんまでが親族で、馬之助や熊之助は架空の人物。しかし、歴史的には馬之助や熊之助は実在したはずだ。
一方、戸籍上では、養子縁組でも血族扱いとなるが、DNA上の血のつながりはない。これが法律(民法)の問題だ。
友次郎さんが六代目だとすると、初代馬之助、二代熊之助、三代與左衞門、四代弥左衛門、五代喜代太郎となる。
>>高瀬大原の地はやはり1560年頃に長谷部元信が秋末氏、重久氏を追い
>>出してから今日まで長谷部氏の土地として存在していた。考えられる
>>のは、1566年(永禄九年)、杠城に三村氏(毛利方)が
>>侵攻した際に便乗してあの土地を得たというのがタイミング的には合致
>>する。
ーー新見氏を追い出した三村氏もそれに続く今田氏も毛利側の吉川氏に所属する武将だったようだ。それまで高瀬大原の地は新見氏の支配下にあったはずだが、1566年以後は三村・今田氏の支配下にうつる。その後、太閤検地があり、関ヶ原の戦の後は、徳川氏が支配した。長牛之助が「上月城の戦」で武功をあらわし、秀吉の感状を得たと主張したのは徳川の治世になってからだ。
もともとは備後翁山城にいた長牛之助の主張を通すのは綱渡りのように危うい。彼は長という姓を西谷に代えたが、あの時代、名字の改称はよほどの理由があったはずだし、かなり強引な政治的な工作があったとみている。
それに対して、高瀬大原では長谷部氏は名字の改称はせず、摩利支天のように、ひっそりと隠れるように生きて、ひそかに勢力をたくわえた。その頃、元信はとっくの昔に死んでいるよ。
そういえば、Jが、試験前日、徹夜マージャンをして、当日は居眠りをして、白紙を提出し、不合格になったことを思い出した。もし入隊していたら、今ごろはアフガニスタンだ。
返信:【Re_六親等】
六代目が友次郎さんの場合、初代馬之助は「尼子の落人」ではなくなる。馬之助は八代前くらいが時期的に「尼子の落人」ということになるよ。
友次郎さんが六代目と称した理由を考えると、「高瀬の地に住み着いて六代目」もしくは「長谷部の氏を称して六代目」という説くらいしかおもいつかない。馬之助が生きた1760年頃に苗字帯刀を許され長谷部を称したのかな。そこから友次郎さんが六代目なら納得がいく。
與左衛門さんには、弥左衛門さんしか男児を授からなかったのだろうか。たしかふゆさんは、三女だったと記憶している。墓石に刻まれていた弥右兵という名前は、與左衛門さんもしくは、弥左衛門さんの兄弟だろうか。
長牛之助が、「上月城の戦」で武功をあらわして、秀吉の感状を得たと主張したのは、徳川の世になってからなの? そんなことありえるのかな。それだと22年から30年前の出来事を一生懸命主張したことになるよ。
負け戦の「上月城の戦」で秀吉から感状をもらい、菅生村西谷の地を知行したのは、それこそ、太閤検地(1582-1598)の頃じゃないのかね。たしかに、長谷部の名を捨てるというのも簡単なことではないから、よほどのことがあったとは、思うが。単純に姓を名乗れなかったのだと思う。
そもそも、西谷と名乗りはじめたのも牛之助ではなく、それこそ、家系図を写した、西谷信富さんあたりなんじゃないのかな。江戸時代は、姓を称せないし、武士以外で「苗字帯刀を許された」のは、ときの権力者か歴史的に重要な苗字を持っている家だけだ。西谷家は大庄屋だから屋号がそのまま姓になったんだろう。
そのとき、菅生西谷村から高瀬大原の地に引越したとは考えづらいかな。長谷部の名を残すために。それなら、西谷家にも「尼子の落人」説が残ってるはず。
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