■【より道‐120】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子氏の滅亡
出雲国の守護代であった、尼子経久は、京極氏の意思を継ぎ、山陰山陽の11ヶ国を制するほどの時代を築きました。
その後、家督を継いだ孫の尼子晴久は、安芸の国人、毛利元就の吉田郡山城を攻撃するも、退陣する結果となり、一時的に勢力を衰退させてしまいましたが、再び、国人たちを配下に治めて、ついには、8ヶ国の守護大名にまで、勢力を拡大させました。
しかし、最終的に西国の覇者となる人物は、毛利元就です。
1552年(天文二十年)に主君・大内義隆に謀反をお越し自害に追い込んだ陶晴賢を少数の国人たちを率いて討ちとった「厳島の戦い」は、織田信長の「桶狭間の戦い」に継ぐ、戦国三大奇襲のひとつと言われています。
さらには、尼子氏の中核を担っていた、新宮党の一族を、得意の風説の調略をおこなうことで尼子晴久自身に同族を粛清させることに成功しました。
そして、いよいよ、尼子氏は滅亡の途を辿るのでした。
■ 敗軍の将
1561年(永禄三年)尼子晴久は、毛利元就との石見銀山を巡る争いの渦中に47歳で急死してしまうと、家督は、嫡男の尼子義久が継ぐことになりました。
このとき、尼子晴久が亡くなったことを知った毛利元就は、すぐさま、石見銀山に攻めこむと尼子義久は、対立路線から変更して、室町幕府へ仲裁を嘆願しました。
この頃の出雲国は、尼子晴久に抑圧されていた、国人たちの不満が爆発しており、武力集団の新宮党の一族も父に粛清されてしまっていたので、頼りになる味方がいません。尼子義久は戦どころではなかったようです。
そんなときに、毛利元就は、和平の条件として、石見国への不可侵条約を提案してききたので、その条件を尼子義久が承諾しました。
そんなことを承諾してしまうと、石見国で尼子氏の国人として、毛利氏と戦っていた者たちや、派遣されていた家臣たちが孤立してしまいます。岩見の尼子勢力は、必死に奮闘するも出雲国へ逃げ込みますが、長年、尼子氏を支えていた者たちのほとんどが、戦局をみて毛利氏に寝返ったといいます。
◼️同領同族の戦い
尼子氏を支えていたほとんどの国人たちが、毛利氏に寝返ったわけですから、毛利元就は、一万の兵をひきつれて、月山富田城を目指して進軍します。
ところが、尼子氏のもとに戻った武将たちがいましたーー。
反対に、毛利氏の陣営に残った武将はーー。
この時点で、同族、同民同士の戦いになりますので、まるで、欧米列強、連合国のような戦略のようです。毛利元就は、自らの手を血で染めずに、あえて長期決戦の道を選び、尼子氏という存在を徐々に衰退させる戦に持ち込んだのです。
■白鹿城
本拠地・月山富田城を取り囲むように、尼子十旗と呼ばれる10の支城がありました。
しかし、このうち、②三沢城、③三刀屋城、④赤穴城、⑥高瀬城の4城は、すでに毛利氏に寝返っています。尼子軍は必死に毛利軍の補給拠点めがけて攻撃をしますが戦局は悪化していきます。そして、毛利軍が次に狙うは、尼子十旗、第一の白鹿城となりました。
白鹿城は日本海の玄関口ともいうべき役割の城でしたので、月山富田城を孤立させるためには、この城を落とすことで、船から兵糧を運び込ませるのを防ぐことができます。
白鹿城主は、松田誠保です。妻は、尼子晴久の妹でした。松田誠保は、尼子氏家臣の牛尾久清とともに敵軍一万に対して、千人で籠城作戦にでたますが、八十日間にもわたる籠城もあえなく、城を明け渡すことになりました。
■尼子氏の滅亡
白鹿城が陥落して、これで、尼子十旗の城のうち、5つの城を失うと、出雲、伯耆のほとんどの国人たちが、毛利氏に寝返りました。そして、1565年(永禄八年)4月。ついに月山富田城が毛利三万の軍に包囲されます。
毛利軍は月山富田城へ総攻撃を開始しますが、城の守りは堅く士気も高かったため、兵糧攻めに切り替えたそうです。対する尼子氏はゲリラ戦で対応。このとき、山中鹿之助が品川狼之介を一騎打ちで討ち破ったという話しは、名高い戦話として語り継がれているようです。
しかし、補給線を絶たれてしまっている月山富田城内では、次第に兵糧がなくなってしまい、ついには尼子氏の重臣たちが、毛利氏に降伏します。そして、1566年(永禄九年)11月に尼子氏は降伏しました。
振り返ると、尼子晴久が尼子国久率いる、新宮党の一族を粛清したのが、1554年(天文二十三年)。
毛利元就が、備後や安芸の国人たちと「から傘連判状」に血判を残し、「厳島の戦い」で陶晴賢に勝利したのが、1555年(天文二十四年)。
尼子義久が家督を継いだのが、1561年(永禄三年)ですから、尼子国久が粛清されて十二年。尼子晴久が亡くなってから、わずか五年で尼子氏は滅亡してしまいました。
これもまた、時代を超えた因果応報ということでしょう。