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【219日目】 嫁して三年子なきは去れ

ご隠居からのメール:【 嫁して三年子なきは去れ】

姉二人には高瀬をなつかしむ気持がなさそうだが、それも一緒に遊んでくれる同世代の子供が高瀬にいなかったからだと思う。同世代の子ども人たちからの影響は大きい。

同い年の友次郎さんと安次郎さんが幼い頃、仲の良い遊び仲間だったことは間違いない。仲たがいをしたとすれば、どちらかの親が「あの子と遊んではダメ」と命令した場合などに限られる。

友次郎さんと妻いしさんとの婚姻および養女津弥の生まれ年と養女入籍年は次の通り。

いし:明治5年6月2日生まれ
   明治23年11月27日長谷部友次郎と婚姻入籍

津弥:明治26年11月27日生まれ
   明治31年3月23日養女入籍
   明治42年6月30日井上勝治郎養子入籍結婚

いしさんが友次郎さんと婚姻入籍したのは18歳の時、友次郎・いし夫婦が津弥さんを養女として入籍させたのは、いしさんが26歳の時だ。「嫁して三年子なきは去れ」と言われていた時代だが、26歳で実子を生むのをあきらめ、養女をもらう決断をするのは早すぎるような気もする。しかし、結果は津弥さんが勝治郎さんと結婚して、四男四女の子宝に恵まれたのだから、早めの養子取り戦略の決断は成功だったといえる。


>>弥左衛門さんとふゆさんの確執がやはり、大きいのではないだろうか。
>>現時点の情報だけで推測すると、弥左衛門さんは、なかさんと結婚す
>>るわけだが、その時点で信谷家の分家が成立している。

ーーその推測はあくまでも憶測の域を出ない。弥左衛門さんが亡くなったのは大正四年だから、津弥さんの養女入籍は弥左衛門さんの承諾がなければ実現しないはずだ。信谷ふゆさんが亡くなったのは明治三十七年。信谷氏を分家して財産分けしたことにより、弥左衛門さんとふゆさんとの間に確執が生じ、明治三十年代までくすぶっていたとしても、ふゆさんの死後は、わだかまりは解消しているだろう。しかも、ふゆさんの分家相続を認めたのは聡明院大賢達道居士という戒名を授けられた興左衛門さんだ。


返信:【Re_嫁して三年子なきは去れ】

ほんとうに、色々な事柄が重なって自分の命や子どもたちの命につながっていることを実感するな。

「信谷家を分家しなかったら」「いしさんに子どもができていたら」「伝蔵さんが出ていかなかったなら」「山室軍平さんと岡村素さんが出会わなかったら、、」ファミリーヒストリーは、運命の積重ねで紡がれている。

それでも、ご先祖さまのチカラが働いている気がしてならない。そもそも、じぶんの人生も、ふつうの結婚生活を送る資格のないロクデナシだったが、いまでは、ふたりの子を持つ親になっていること自体驚きだ。

徹さんが言っていた「仏さんが一番いい時に死なせてくださる」とは、誰にとっていい時なんだろう。少なからずとも、自分は、徹さんの死をきっかけに大きな影響をうけて、このnoteを書き紡いでいる。これも宿命というのであれば、人生とは、すでに決まった道を歩んでいるのかもしれない。

だったら、人生楽しんだもん勝ちのような気もするが、七難八苦があるから、それを成し遂げたときに楽しいことが待ち受けているのかもしれない。

ロクデナシは、遊び心をもってないと、自分がつまらない男にみえてしまう。よくも悪くも、自分の特徴は、ロクデナシを反省して努力をするところだ。まさに七難八苦を地で体験しているような気もするが、そろそろ、この苦境を脱出し、運気を引き戻したいところだ。


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