【187日目】長氏から西谷氏への改称の理由
ご隠居からのメール:【 長氏から西谷氏への改称の理由】
『陰徳太平記』によれば、尼子経久が行年八十四才で逝去したのは1541年(天文十年)だが、その頃、孫の尼子晴久は芸州吉田城へ侵攻したものの、敗走して月山富田城へ逃げ帰った。
そんな離反者の中に長元信の名前はないが、元信は山内隆通と親しかったので、行動をともにした可能性はある。元信にしてみれば、最大の関心事は領地の安堵で、そのためには強い者が率いる側につく必要があった。
1555年(弘治元年)、陶隆房と毛利元就との「厳島の戦」に長元信も参戦したはずだが、『陰徳太平記』に元信の武功の記載はない。
長元信が新見元致らとともに「からかさ連判状」に連署したのは、1555年(弘治元年)。その時点では、元信は毛利氏に加担しており、1562年(永禄五年)の白鹿城攻めでは参陣している。松田氏にとっては宿敵だった。
両氏とも戦国時代の京極氏、山名氏、塩冶氏の縁戚だったから、知らぬ仲ではなかった。出雲が山名氏から尼子氏の手中におさまった頃までは、両氏とも山名氏の有力な武将だっただろう。ところが、尼子晴久が、毛利氏の安芸吉田城攻略に失敗した頃、長元信は吉川興経や山内隆通らとともに離反したのではないか。
備北の領地は、三十年のうちに、権力者が、尼子氏(新見氏)⇒毛利氏(三村氏、今田氏)⇒豊臣氏⇒徳川氏と、ころころ変わっている。その間、特に毛利氏が関ヶ原で負け、徳川氏の世になってからは、長牛之助、あるいはその後継者は、「尼子の落人」と称して、菅生の土地の権益を主張し続けたのだろうと思う。
>>長牛之助が、「上月城の戦」で武功をあらわして、秀吉の感状を得たと
>>主張したのは、徳川の世になってからなの? そんなことありえるのか
>>な。それだと22年から30年前の出来事を一生懸命主張したことになるよ。
ーー徳川の世になってからは、長牛之助、あるいはその後継者は、「尼子の落人」と称して、菅生西谷の土地の権益を主張し続けただろうと思う。そうしなければ生きていけない。西谷氏への改姓は、毛利側だった一族との関係を隠蔽するためだと思う。高瀬長谷部氏の場合は隠し姓にして、村内で隠然たる勢力を発揮し続けることに甘んじる道を選んだ。
と、このように考えるのは、牛之助や馬之助がなぜ、「尼子の落人」と称したのかという疑問から生まれたオレの憶測にすぎないが。
謎の人物、弥右兵さんや六代目友次郎の謎も解明できていないが、それはしばらく後まわしということにして、そもそも長氏と松田氏がどのようにして結びついたのかについて考えてみたい。
返信:【Re_長氏から西谷氏への改称の理由】
そうか!!。長牛之助は「上月城の戦」で尼子方として参戦しているから「尼子の落人」なんだね。であれば、1730年頃に西谷から高瀬へ移住したと考えたほうが合点がいく。西谷氏と日野のつながりも段塚氏で証明されたことだし、辻褄があうな。
「関ヶ原の戦」で毛利氏は、西軍の大将だったが、徳川氏とも繋がっていた。結局、どっちつかずの対応をしたので、萩への転封となったが、ギリギリ戦いに敗れたというわけではない。すなわち、長谷部氏が名前を隠す必要はなかったのではないかと思う。
西谷氏の名はやはり、屋号で子孫が姓にしたんじゃないかな。
長牛之助が豊臣秀吉から感状をもらった時期を考えると、「上月城の戦」1578年(天正六年)の三年後から遅くても六年後。1583年頃までにはもらっているはずだ。ちょうど秀吉の中国征伐もしくは、中国大返しで、毛利氏と和睦し、高梁川を境に東西に分けた頃に感状をもらった。毛利氏へのけん制という意味合いもあったかもしれない。
1600年(慶長五年)。長牛之助は、新見氏の家臣として仕えていたが、徳川の世になり、帰農せざるを得ない状況になった。そこで秀吉の感状を根拠に西谷の地に住み着いたというところかな。菅生村は、新見氏の支配下にあったから、新見氏の家来ならうまくできたかもしれない。
1730年頃になると、西谷氏は、大庄屋となり、苗字帯刀を許され、名を称せるようになった。長男は地名から西谷を称し、弟の馬之助は高瀬の地に移住する。そして、隠し姓を長谷部とした。西谷氏からの相続で馬之助は、どえりゃあ財産持ちになった。
このストーリーだと「尼子の落人」「苗字帯刀」「六代目友次郎」「どえりゃあ財産持ち」「日野とのつながり」にも理解を得ることができるが、ただ一つ、松田氏との関係性はやはり不明だが、元信の死と尼子再興軍、「上月城の戦」で説明がつく。
昨日の敵は今日の友だね。
前回の話【より道‐62】戦乱の世に至るまでの日本史_建武新政の瓦解>>>