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■【より道‐16】随筆_『辰五郎と方谷』①‐③(長谷部さかな)

父の随筆「尼子の落人」「新見太平記」に続く「辰五郎と方谷」の短期連載全9話を3回に分けて掲載いたします。一見、わが家のファミリーヒストリーからかけ離れている話にみえますが、実は、遠縁の親族の話で、父の故郷、岡山県新見市神郷町高瀬の「見渡す限りの山々が全て長谷部の土地だ」といわれる所以、謎についてのヒントが隠されているかもしれないと思っています。


【短期連載①】

 『伝記・太田辰五郎』を、ある人にすすめられて読む機会に恵まれた。太田忠久著のこの本は、かつて本紙の前身、備北産業新聞に連載されたものである。読み進んでいくうちに、子供の頃の思い出がよみがえってきた。家で飼っていた牛(牡をコッテェ、牝をバシと呼ぶ)。切りひらかれた山肌に転がっているカナクソ(鉱滓)。小学校や中学校の課題授業で砂鉄を採ったこと。校庭にゴザ(茣蓙)をしいて見物した村芝居など。

 一気に読了し、しばらく思い出の余韻にひたった。主人公の辰五郎は、隣村の千屋の人、作者は同じ村の神郷の人——私にとっては、故郷の村への郷愁をそそる伝記小説である。といっても、村という名称は今は使われていない。千屋や新郷が村と呼ばれていたのは、私の子供のころのこと。今は千屋は新見市、新郷は神郷町の一部になっている。しかし、私の思いの中では今でも村である。兎追いしかの山、小鮒つりしかの川、山は青き故郷、水は清き故郷だ。

 思い出はいろいろあるが、自分にかかわりのあることにかぎられている。故郷の歴史(郷土史)は、つい最近まで興味を抱いたこともない。郷土の偉人には、たとえば、山田方谷(1805年-1877年)がいるが、私にとっては、伯備線の駅名にゆかりのある人というだけで、それ以上のことは何も知らなかった。最近になって、これもある人から幕末に活躍した大人物、越後屋(三井)の番頭でもつとまるほどの金儲けの達人で財政改革の成功者、しかも、すぐれた詩人と聞いて、おそまきながら方谷に関心を抱き、文献を読み始めているところである。

 その方谷が、『伝記・太田辰五郎』にも登場している。

 辰五郎はその後も幕府の要職にある備中松山藩の板倉家に通じ、山田方谷などとも親交をたもって、世間の噂などどこ吹く風とばかり、児島味野の野崎家にわが家の二女を嫁がせているのだった。というくだりだ。辰五郎は方谷と同時代の人だったのである。伝記によれば、辰五郎が生まれたのは享和二年(1802年)。方谷より三つ年上だ。

 いずれにしでも、方谷と親交があったということは、私にとっては意外だった。郷土史を彩る二人の偉人はどのような場面で出逢い、どのような会話をかわしたのだろうか。興味津々たるものがある。

 もっとも、『山田方谷全集』をはじめとして、これまでに私が目を通した文献には方谷と辰五郎との接点があったことを裏付ける記録はほかにない。『伝記・太田辰五郎』には、 山田方谷の書簡の写真が載っているが、書簡は太田八次郎宛になっている。八次郎は、辰五郎の息子だ。方谷から辰五郎宛の書簡は、太田家の蔵には残っていないのだろうか。 

 そもそも、辰五郎は逸話の多い人であるが、「記録的なものは比較的少ない。したがって口碑こうひを主に筆をすすめざるを得なかった。口碑と記録で物語をつなぎ、不明なところは私の想像で埋ずめた」と、伝記作者の太田忠久氏は、あとがきで述べている。

 したがって、辰五郎が方谷との親交をたもっていたというのももしかすると口碑あるいは伝記作者の想像によるものかもしれない。 しかし、客観的な史実に基づいて推理すると、 二人が交流していた可能性は十分にあり得る。 私も手元の資料から大きく逸脱しない範囲で、 いくらかの想像を加え、二人の接点について 推理してみたいと思う。

(つづく)


【短期連載②】

 辰五郎は、享和二年(1802年)二月、田畑の持高二千余石、十指を超える鉄山を有し、 "千両箱を 飛び石にして江戸まで行く"といわれるほ の大資産家、太田正蔵の長子として生まれた。 正式に太田家督を継いで当主となったのは文政十一年(1828年)二十七歳のときである。人並みすぐれた頭脳と強固な意志を持ち、見識と胆力をそなえていた。幼少の頃から武術を好み、剣は神影流の使手、柔術は竹内流の免許皆伝の腕だった。

 十指を超える鉄山を有する大資産家がいたといっても、今の千屋からは想像しにくいが、当時は日本が鎖国をしていた江戸時代の末期である。反射炉精錬と高炉製鉄などという近代的製鉄技術はなく、外国からの洋鉄の輸入もない。その代わりに、砂鉄を炊いて鉄塊を精製する特殊な製鉄技術、いわゆるタタラ製鉄が行われていた。

 タタラ製鉄には砂鉄と木炭が欠かせない。大量に砂鉄が採取でき、炭焼で大量の木炭を生産できる土地がタタラ製鉄に適している。 わが国では中国山地が絶好の適地だ。中国産地は湿潤な気候のため、樹木を伐探したあとの復元力が抜群で、しかも砂鉄がたくさんとれた。江戸時代には、わが国における鉄の生産量の大半が中国山地で生産されていたという。

 千屋は、中国山地のど真中に位置している。千屋の太田家は、なかでも有力な大手の鉄山業者だった。伝記のあとがきによれば、「鉄山の太田辰五郎と、塩田の野崎武左衛とが、岡山県下の古今の事業家の双璧」だったという。

 太田家の事業は、現在の基準でいえば新日鉄に匹敵するような規模だったのかもしれない。なお、野崎家には辰五郎の二女が嫁いだことにより、鉄山と塩田が結びつき、両家は縁戚関係となっている。

 太田家の富を象徴するものとして辰五郎が建てた邸宅がある。この邸宅は千屋川を正面にして三方に濠をめぐらせた横三十八間、縦五十二間、千九百七十坪の広大な敷地だ。加賀百万石の江戸屋敷の見取り図をまねてつくられたのもので、母屋だけでも四十六の間、さらに別棟、納屋、下男下女の住棟、酒蔵、味噌蔵、醤油蔵、馬屋、牛厩があった。

 このような豪邸が建てられるほど鉄山業は繁盛していたが、辰五郎は前途に一抹の不安を感じていた。砂鉄は無限に採掘できるものではないし、燃料の材木が不足するかもしれない。高梁川の下流の住民からは上流での鉄穴(かんな)堀を停止せよという抗議がきている。将来のためには鉄山に替わる新しい産業を興さなければならない

(つづく)


【短期連載③】

 「千屋には豊かな草が繁茂する。肥沃な土地がある。この草の生い立つ千屋の野を、何かの生活に役立てる方法はないか」と、辰五郎は考えた。

 そこで、ひらめいた案が牛の飼育である。竹ノ谷の浪花(難波)千代平が良牛を買い集めて飼育している事を聞いて、西へ二里半の道を歩いて浪花(難波)家を訪れ、あかという牝牛を譲り受けた。そして、あかに大阪天王寺の牛市で買い求めた牡の大牛と交配させた。生まれた牝牛が後に太田の「大赤号」と呼ばれ、後世にまで語り伝えられる名牛となった。

 辰五郎は、牛の改良が先ず選択交配にあると考え、牛の品評会を催して、優秀な牛には賞品を与えた。村の人々が良牛の生産につとめるように仕向けたのである。やがて、村人の間で牛の飼育熱が高まってきたところで、天保五年(1835年)の秋、品評会と一緒に牛市を開催することにした。余興の闘牛では、「大赤号」が他の牡牛を問題にせず突き伏せて、喝采を浴びた。牛市は年々盛大になった。千屋及びその辺の農家ではほとんどが牛を飼うようになり、おかげで農家の生活はうるおった。

 その功績により、辰五郎は没後の明治三十年に農商務大臣から功績追賞を与えられている。また、昭和二年には、犬養木堂筆による顕彰碑が旧邸宅跡に建てられた。

 千屋牛は全国に知られるようになり、ついに、有名な文学作品にも登場する。横溝正史氏の小説『八つ墓村』である。『八つ墓村』は、「鳥取県と岡山県の県境にある山中の一寒村」という設定で、「この辺りの牛はひとくちに千屋牛とよばれて、役牛としてよく肉牛としてよく、近所の新見で牛市がたつときには、全国から博労が集まるくらいである」と描かれている。

 ただし、『八つ墓村』は、かつてタタラ製鉄が盛んに行われた土地とは描かれていない。永禄九年(1566年)尼子の落人が後日の再挙を期して、馬三頭に三千両の黄金を積んでやってきた。その三千両の黄金は、村のどこかに隠されているはずだが、いくら探しても見つからないという。三千両の黄金といえば大変な金額のように思われるが、『伝記・太田辰五郎』で太田家が、足守藩木下家に貸して踏み倒された金額は三万両である。一ケタ違う。

 三万両といっても今の時代にはピンとこないが、伝記作者は、当時と現在(あとがきが書かれた昭和四十九年)の大工の日当、昔の呉服問屋の大番頭と今のデパートの支配人、寺子屋や塾の講師と現代の学校の教師などの給料などさまざまなものを比較して、千両がほぼ二億円に匹敵すると計算している。

 その計算によれば、尼子の落人の黄金三千両は約六億円、太田家が足守藩に貸して踏み倒された三万両は約六十億円。昭和四十八年の神郷町の予算の五・五倍、新見市の予算とほぼ同額となる。

(つづく)


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