■【より道‐35】知られざる亡国_幻の満州国②
満州国という存在を少しずつ学んでいくうちに、今度は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがどういう生活をしていたのかということが気になってきた。父と毎日メールのやり取りがはじまってから、不思議なご縁でお祖母ちゃんが書いた手紙とめぐり会った。
そこには、1940年(昭和十五年)哈爾濱から日本に一時帰国した数ヶ月後に、新天地の大同・張家口で生活をしている様子が書いてあった。
張家口と哈爾濱では、随分場所が違うけど文章の片隅から当時の様子が想像できた。例えば、1940年(昭和十五年)には、既にガソリンはなかったようで、かまどの煙を床下に通す「オンドル」をつかっていたそうだ。氷点下30度を越えることもあるとあったそうだから、めちゃくちゃ寒かったんだろうな。他にも近くに市場があって、魚やお刺身、砂糖やマッチなどは不自由していないと書いてあった。日本では1938年(昭和十三年)に国家総動員法が発令されていたから、ある意味、日本よりはマシな生活を送っていたのかもしれない。
それでも満州国や張家口について本やネットを調べても、なかなか生活の様子までわかるものに出会えていない。だから今回は、満州国を演出した人たちから当時の様子を想像してみようと思う。
【愛新覚羅溥儀】
満州国に影響を及ぼした人は色々いますが、まずは、満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀について紹介しようと思います。溥儀は、大清帝国のラストエンペラーです。2歳のときに、第12代清朝皇帝として即位し、1912年(明治四十五年)6歳のときに辛亥革命で退位することになりました。
1932年(昭和七年)満州国が成立すると2年後の28歳で初代皇帝として即位しますが、11年後の1945年(昭和二十年)に日本が敗北すると満州国も崩壊。ソ連軍に捕まり14年間ものあいだ抑留されてしまいます。釈放後は、満洲族と漢族の民族間調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として政協全国委員という、国会議員相当の職に選出され1967年(昭和四十七年)61歳でこの世を去りました。
エピソードとすると、270年続いた大清帝国が滅亡した1912年(明治四十五年)の辛亥革命後、溥儀は天津にある日本租界、いわゆる外国人居留地で妻の婉容と一緒に住んでいました。1931年(昭和六年)に満州事変が起こると板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐の命令で溥儀は天津から旅順に連れだされました。
1932年(昭和七年)満州国が成立した五日後、溥儀は自らが満州国の皇帝になることと引き換えに関東軍と密約を交わします。その内容は、「満州国の治安維持・国防は日本に委ねる」「鉄道、港湾、水路、空路の管理を日本に委ねる」「満州国の中央・地方の参議の選任、解任は関東軍の同意を必要とする」というもので満州国が日本の傀儡国家となる約束をしましたわけです。
正室の婉容は夫婦仲を理由にアヘン中毒だったそうです。そのような婉容を関東軍は快く思わず、皇室行事などにはほとんど参加させませんでした。また、第2夫人として側室に文繡がいましたが、こちらは溥儀と離婚しています。文繡は溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露するなど、かなり、おてんばさんだったようです。
その後、譚玉齢を側室にしますが、わずか5年で亡くなります。正室の婉容は、日本敗戦後、中国八路軍に捕まり、翌年の1946年(昭和二十一年)にアヘン中毒で亡くなってしまいました。溥儀は1962年(昭和三十七年)55歳のときに漢族の李淑賢と結婚しましたが、溥儀が61歳で亡くなったので二人の結婚生活は5年半で幕を閉じました。
最後に、1945年(昭和二十年)8月15日、日本敗戦の3日後に満洲国の消滅を自ら宣言すると満洲国皇帝を退位しました。日本へ亡命するため8月19日に奉天の飛行場に行くと、ソ連軍に捕まってしまいます。ソ連に収監されている状態で、翌年の極東国際軍事裁判、東京裁判の証人として出廷しますが、裁判ではソ連に有利な証言を強要されたことを後の自叙伝で告白しています。
【石原莞爾・板垣征四郎】
ふたりとも陸軍一夕会のメンバーで、満州事変を企てた人たちです。石原莞爾は「世界最終戦論」をまとめた人です。「第一次世界大戦後平和に戻ったが、列強はやがて次の戦争をはじめる。いろんな戦争をした後に準決勝でソ連とアメリカが戦うことになるだろうから、その次に東亜連盟とアメリカ合衆国の決戦となる。その決勝戦(最終戦争)に勝った国を中心に世界がまとまることになるので、東洋の「王道」と西洋の「覇道」のどちらが世界統一の原理になるか決定する戦争となる。それまでに日本は、力を蓄え東亜諸民族を団結さる必要がある」と唱え道を示した人です。その後、東条英機との対立に敗れ中央官僚から左遷させられました。
もう一人は、関東軍の高級参謀・板垣征四郎。東京裁判でA級戦犯、「平和に対する罪」で処刑されています。満州事変のきっかけとなった事件とは、満州鉄道を爆破した「柳条湖事件」のことですね。当時は、南満州鉄道に線路一キロに15人体制で関東軍が警備をしていたのですが、柳条湖付近の線路を爆破させ、その理由を「張学良軍が攻撃した北大営を攻撃せよ」と自作自演の命令をだしました。そして、満州地域を制圧していた軍閥・張学良率いる東北軍に宣戦布告して満州地域を制圧していったわけです。ちなみに、張学良のお父さん、張作霖は、満州の軍閥トップで柳条湖事件の3年前に関東軍の河本大作の企てで爆殺されています。
板垣征四郎は、その後、出世街道を進みます。満州国に満州拓殖公社という会社を立ち上げ、日本の移民政策を主導すると、近衛内閣のときには陸軍大臣になります。「満州産業開発五ヵ年計画」を立案し蒙古聯合自治政府や南京国民政府(汪兆銘政権)の工作をした人でもあり、731部隊の前身部隊である関東軍防疫部や100部隊の設立提案者でもあります。自分のお祖父ちゃんは、蒙古聯合自治政府で蒙彊防疫處に所属していた可能性がありますので、板垣征四郎と顔見知りだったかもしれません。
板垣征四郎は、1948年(昭和二十三年)に絞首刑となりますが、日記には「満州事変ハ成功セリ。其後志支那二手ヲ出シタノガ誤リ。万死二値ス」と書いてあったそうです。石原莞爾にしろ板垣征四郎にしても、アジア人で協力して列強欧米を追い出そうという正義はあり、平和を望むための判断を下してきたのでしょうけど「勝てば官軍負ければ賊軍」。ふたりの思想から多くの人々が不幸の途を辿ったことは確かです。