【50日目】養子だらけの家
ご隠居からのメール:【養子だらけの家】
喜代三郎さんの件、念のため、戸籍を調べたところ、実は喜代太郎さんだっ
た。亀三おじさんが、喜代三郎百年祭を営んだのは、自分が三男だから、喜代三郎さんのイメージを自分に引き寄せたのではないかと思う。ついでに祖父は勝治郎、曾祖父は友次郎と戸籍ではなっている。今まで間違えて失礼した。(戸籍のコピーはこんど渡すよ)
戸籍上は、友次郎の前戸主が喜代太郎で、養兄となっている。義理の兄とい
う意味だが、それでも友次郎は父弥左衛門の長男と記載されている。喜代太郎と弥左衛門との関係は戸籍からは養子縁組をしているようだが、弥左衛門→喜代太郎→友治郎→勝次郎→與一の順で戸主が代わっている。
與左衛門
弥左衛門(天保二年三月二十一日生)
長男 友治郎(元治元年八月二日生)
養子 喜代太郎(嘉永三年二月十七日生)
伊曽(喜代太郎の妻 安政五年七月二日生)
つくづく養子だらけの家だなあと思う。われわれのDNAの変異はますます複雑になり、経路が追えなくなってきた。
明治二十年十月五日 松田伝蔵生まれる。
明治三十一年三月二十三日 大原亀太郎孫喜太郎長女津弥入籍。
明治三十二―三十四年頃、松田伝蔵、興譲館中学に編入学。
明治四十二年六月三十日 養女津弥と養子勝治郎との婚姻届
返信:【Re_養子だらけの家】
なんか、パンドラを徐々に開けている感じだね。長谷部氏は、女系の家系かつ、子宝に恵まれなかったのだろうなー。
戸籍上、輿左衛門さん以降のみなさんには、「長谷部」の苗字はあるのかね?輿左衛門さんや弥左衛門さんまで行くと、わからないけど、喜代太郎さんと友次郎さんは、18歳年が離れている。
喜代太郎さんと伊曽さんの間にも子宝が恵まれなかったのだろう。その後、友治郎さんを養子にとり「いし」さんと結婚。残念ながら友治郎さんと「いし」さんの間も子宝恵まれず、ツネさんを養子にとる。その後伝蔵さんを養子にとり結婚させるが破断。勝次郎さんとツネさんが結婚する。
喜代太郎さん、友治郎さんの時代は世の中的も色んなことがあった。まさに、渋沢栄一の時代。
●1860年 (万延元年) ■桜田門外の変
●1862年 (文久2年) ■生麦事件
●1863年 (文久3年) ■薩英戦争
●1867年 (慶応3年) ■大政奉還
●1871年 (明治4年) ■廃藩置県
●1873年 (明治6年) ■徴兵制布告
【氏と血と土地の謎はこんな感じかね】
・上月城の戦い後、秀吉側に仕えた長谷部氏が高瀬や菅生一帯知行賜る
・関ケ原後、西軍に加担した長谷部元信子孫が上記一族に合流
・徳川に隠れながら一族と土地を守る
・「長谷部」氏は男系の家督相続を重視し分家は苗字を変える
・養子をとりながら一族総出で代々「長谷部」の氏を守る
・我々の血筋が濃いのは、井上氏と大原氏(松田氏)