【146日目】史実
ご隠居からのメール:【史実】
>新見氏が矢野庄にある小堀三間城主として、からかさ連判状に署名し
>ているということは、新見氏は、備中新見藩を離れ、長谷部氏と連携
>していたことになるね。
その通りだが、『新見市史』にはそんなことは記載がない。新見氏の一族が上下にいたという史実(?)は新見市では認識されていないのだ。では、「からかさ連判状」の連署が信用できないかというと、信用できるとオレは思う。戦国時代のことは、隠されている事実が多いと思うよ。
>長谷部氏は、京極氏と親戚関係なのに尼子氏から離れたのは、なぜ
>だろう。山名氏も尼子氏を離れ、新見氏も離れているということは、そ
>れだけ、毛利元就にチカラがあったのかね。
備後の国人18人を抱き込んだ毛利元就の謀略についてもっと調べる必要がある。長(長谷部)元信や新見元致が山名氏を裏切り、尼子氏を裏切った見返りがそれほどあったとは思えない。最前線で戦わされただけだ。
山名宗全や尼子晴久の失敗の本質からも学ぶべきことは多いと思う。
返信:【Re_史実】
馬之助、もしくは馬之助の両親の時代は、豊臣秀吉や徳川家康の影響力が強くなって大変な時代だったと思う。1582年(天正十年)からはじまった太閤検地、1591年(天正十九年)には山城廃止令で、広島城下の屋敷に入ったと記載をみた。1588年(天正十六年)には刀狩が発令されているので、農民から刀を取り上げられた。
名字帯刀の事柄について調べていると興味深いことが記されていた。佐原の名主であった伊能忠敬は、領内においては代々「伊能」姓を許されていたが、領外ではこれを名乗ることができず、57歳の時に蝦夷地測量の功績によって佐原以外でも「伊能」姓を名乗ることが許されている。
「長谷部」と「長」の関係もどんな意味があるのだろうが。個人的には、「長谷部」は、雄略天皇よりもらった姓のため、報奨の祝典などの時に使用し、戦のときなどに「長」と語っていたのではないかと思っている。
しかし、能登では「長」姓を頑なに守ってきている。能登大屋荘で、長谷部信連は5人の子供を授かったそうだが、みんな「長」という姓を大切にしている。
ここにも疑問を感じる。歴史を学べば学ほど、姓は家柄の格を表している。鎌倉時代であれば「長」よりも「長谷部」の方が格が高いだろう。なぜ、信連は能登では「長」という姓を繋いでいったのだろう。
一方、元信は「長」と「長谷部」の両方を使用している。「からかさ連判状」には「長元信」上月城の猿楽能に参加したときには「長谷部元信」と記載がある。
わが家も「長」と語っていてもおかしくないのに苗字帯刀を許されたのは「長谷部」という姓だった。馬之助さんから輿左衛門さんまでの間、高瀬村の農民で姓を名乗り脇差と長刀の所持を許されたのは、ごくわずかだっただろうな。