【139日目】山林所有権
ご隠居からのメール:【 山林所有権】
「太閤検地」をウイキペディアで検索すると、1582年までに豊臣秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。百姓は、耕作権を保証されるかわりに年貢負担を義務ぎむづけられ、土地をはなれられなくなった、という。
「山林は除く」となっている。つまり、山林の土地所有権も年貢納税の義務もなかったのだ。江戸時代もその考えが適用されていたとすれば、長谷部氏先祖代々の山林所有権はどう考えたらよいか。さらに調べていくと、次のようなブログが見つかった。
藤田達生・三重大学大学院教授の『藩とは何か』(中公新書)によれば、古代国家の成立時には、「公地公民」、つまり土地も民も天下(天皇)のものであった。時代が進むにつれて荘園などが発達し私有化が進むのだが、戦国時代から江戸幕府ができる過程で御破算になる。江戸幕府は土地の所有権を認めていないというのだ。だから大名の「国替え」なんてことが平気で行えた。江戸の大名屋敷も点々としていたらしい。位が上がると大きな屋敷に移るからだ。
農民も新田開発などをすると、集落中で土地の再配分などをするのが当たり前で、自分の土地を代々引き継ぐというものではなかったという。あくまで土地は天下のもの、それを使う権利を分割しているだけにすぎない。……この理屈は、現代の中国と同じである。
それが明治政府になって、欧米風の個人所有を認め、代わりに課税するのだが……。だから現在の土地所有権は、たかだか150年に満たない存在なのだ。
実は現代的意味による「山主」はいなかったのではないか。つまり山主は森林の土地を所有していなかった。ただ、山に生えている林木に所有権があった。それが「立木一代限り」の制度で、吉野が借地林業と呼ばれる形態の元でもあるのだ。さらに立木の管理者として山守が登場して、所有と管理の権利が分離されていく。
明治になってから形だけの「山林所有権」も示されるものの、吉野では江戸時代的に立木権と土地所有権は別のものとしていたのだ。それが完全に崩れて山主=山林所有者になるのは戦後だろう。そして、立木権を保証するものとして「立木ニ関スル法律」、立木法がある。。
目からウロコだね。現在の土地所有権は、たかだか150年に満たない存在ーーということは、與左衞門さんの頃からだ。そう考えると、ふゆさんへの分割相続は先見の明があったというべきだろう。
返信:【Re_山林所有権】
すると、長谷部家は1600年頃「耕作権」と「立木権」を得て高瀬に住みつく。明治期の「立木権」から「山林所有権」にかわるタイミングは、友次郎さんの時代。そして、戦後に「山林所有権」が「山主」といわれる「土地所有権」を得たのは與一さんの時代ということになるね。
その土地所有権を切売りして、新郷駅をつくったのだろうか。伝蔵さんが長谷部家を三井、三菱に例え「豪農」と表現するのにも納得がいくね。松田氏が「耕作権」を得たのも「太閤検地」のタイミングだろうか。それまでに住んでいないと、このストーリーは成立しないかな。
日野の謎も徐々に解けてきたよ。日野には日野山名氏が日野郡一帯を治めていて、1336年(延元元年)に長谷部氏は山名氏と一緒に備後・有福城を攻め落としている。長谷部氏はこの戦いのあとに矢野荘(上下)一帯を治めた。
その後、1467年(応仁元年)からはじまる「応仁の乱」で山名氏は日野富子側につくが、長期戦になり権力が傾き衰退してしまう。そこで、伯耆に侵入してきた尼子経久の傘下に入ることになった。
そのとき日野山名氏に派遣されたのが、亀井茲矩の先祖、尼子家臣の亀井秀綱のようだ。タイミング的に長谷部氏が尼子氏の配下になったも同時期のようだ。
1558年(永禄元年)に、山名氏は尼子氏を離反し毛利氏につくことになるが、この流れも長谷部氏と同じだ。唯一違うのは、長谷部元信は毛利の「から傘連判状」に署名する国人のひとりとなるが、日野山名氏は尼子再興軍の出雲侵攻に呼応し上月城の戦いまで戦うことになる。山中鹿之助から最後日野山名氏に感謝文を送っている。
すなわち、日野山名氏は尼子の落人なのだ。
なにが、言いたいかというと、日野山名氏と長谷部氏は平安時代後期から親族関係で、上月城の戦いの後、お互いに面倒を見る理由は十分にあるということだ。新見氏に話を通し日野の隣にある高瀬村に居住地を与えることもできただろう。