【204日目】自称尼子の落人系
ご隠居からのメール:【自称尼子の落人系】
>>いやいやお父さん、我々は「尼子の落人系」でしょ。
ーーそうかな?、我々は実は「自称尼子の落人系」ではないのか。
>>しかし、面白いことに、長谷部信連が伯耆に残した長男「藤太郎実信」
>>の母、つまり信連の妻は、雅楽(うた)氏のようだ。実信氏のことは、
>>「家系図」にも記されている。
ーー信連の妻が雅樂氏とは知らなかった。雅樂氏という姓が存在することも知らない。もちろん、自分が雅樂氏のDNAを継承しているという自覚もない。なにしろ、音楽的才能ゼロのオンチだから。
念のため『上下町史』の家系図でも信連の二代目が雅樂氏の長男「藤太郎実信」となっているか、確認してくれ。
>>雅楽は、皇室に伝わる日本古来の音楽文化芸能だ。現代では東儀秀樹さ
>>んが有名だが、改めて、長谷部信連が日本の中心人物だったと思える事>>例だね。
ーー数十世代が経過するうちに音楽的才能のDNAが薄くなりすぎたようだ。せめて孫の世代から信連のレベルに近づくことができるよう雅楽のレッスンをはじめたほうがよい。
>>そして、信連のときから東寺との関係があったと記されているのを発見
>>した。内容は、平家討伐の密書を信連が送ったというもの。800年もの
>>前の書面が残っているとは、さらさら思えないが、鎌倉時代から東寺の
>>つながりがあるという可能性が出てきた。
ーー鎌倉時代の以前、平安時代から新見庄は東寺の荘園だった。東寺は荘園の既得権を守るために武士の力を借りる必要があった。武士は荘園の傭兵として勢力を増してきた。そもそものスタートは対等の関係ではない。
>>すると、高瀬の地が長年東寺に年貢を納めていた、そもそもの背景が信
>>連だという可能性がでてきた。すると、秋末氏や重久氏は長谷部の小作
>>人だったのではないかね。長谷部元信が追い出したということも考えら
>>れる。
ーー年貢は村高といって、基本的には、村毎に村高の総額が決まっていたのだろう。荘園の代官が村の代表者から徴収するのだ。個別の秋末氏や重久氏や長谷部氏と代官がいちいち個別交渉するとは思えない。
昭和二十年まで、わが家にも小作人がいたことは事実だ。GHQの方針によって地主の既得権は取りあげられ、小作人に与えられたはず。
返信: 【Re_自称尼子の落人系】
残念ながら、コピーした『上下町史』には家系図がなかったが、『続日野町史』に備後長氏の家系図が記載されていた。そこには、「信連」の子は「良連」と記載あり、母は、「金持権正良村ノ女」と記載がある。まぁ、互いに言い分が違うが、他にも面白い情報があったら、共有するよ。
昨日、伝蔵さんの記事を読みなおしたが、岡山市井原にある與譲館中学に編入し、その後上京したと記載があった。また、「長谷部家では、思うところがあり、他人のチカラを借りずに独力独行をして苦学をつづけた」とあった。
長谷部家に対し恨みつらみがあるようにも感じるが、この時代に、「貧しい人の味方になりたいと」志がめばえたのであれば、小作人に対し厳しい労働を虐げていたのを目の当たりにしていたのかもしれないね。
與譲館中学校に編入のお金は、友次郎さんが出したのだろうか。とはいえ、一度、養子戦略は、失敗してしまった。伝蔵さんが外に出て行ってしまったとき、ツネさんは、どのように思ったのだろう。自分も家を飛び出し自由に生きてみたいと、思っただろうに。
失敗を糧にして、勝次郎さんを婿養子にむかえ、自分たちがこうして命を授かっているのは運命だ。與一さんも、あのとき、貴美子さんに対する過ちを後悔しているはず。伝蔵さんもツネさんに対して懺悔の気持ちがあるだろう。
誰もが、人生に後悔するものだが、長谷部家の場合、どれも相手の気持ちに寄り添えなかったことが原因のような気がする。
<<<次回の話【より道‐68】戦乱の世に至るまでの日本史_擾乱のあとと愛に飢えた息子