【206日目】長谷部神社
ご隠居からのメール:【長谷部神社】
能登の長谷部神社には子宝石があるというだけあって、信連は子沢山だね、『続日野町史』には、備後長氏の家系図が記載されていて、そこには、「信連」の子は「良連」と記載あり、母は、「金持権正良村ノ女」と記載がある。一方『日野郡史』によれば、信連が伯耆に残した長男「藤太郎実信」の母、つまり信連の妻は、雅楽(うた)氏だという。
おそらく、『金沢市史』を読めば、の信連二代目の名前があるだろう。信連のような有名人は、全国に胤を残す。
>>昨日、伝蔵さんの記事を読みなおしたが、岡山市井原にある與譲館中学
>>に編入し、その後上京したと記載があった。また、長谷部家では、思う
>>ところがあり、他人のチカラを借りずに独力独行をして苦学をつづけた
>>とあった。
ーー興譲館中学は私立だから、金がかかる。独立独行といっても、少なくとも最初のうちは誰かの資金援助が必要だ。さすがに友次郎さんに資金援助をあおぐわけにはいかないから、実家の父親の儀平さんや兄の善太郎さんに頼るしかない。善太郎さんはオレが子供の頃、すでに八十歳代の老人だったが、ゆみ子と一緒にいるところで、声をかけられたことがある。そのときの善太郎さんのことばは今でも忘れられない。
ゆみ子が生まれたのは昭和十八年十一月、亀三叔父さんの養子になったのは昭和二十四年二月。曾祖母イシさんが、「おまえはこの家の大事な子ではない。大事なのはゆみ子だ」と言ったのはその頃だと思う。
>>伝蔵さんが郷関を出て行ってしまったとき、ツネさんは、どのように思
>>ったのだろう。自分も家を飛び出し自由に生きてみたいと、思っただろ
>>うに。
ーー現代の女性なら、自分も家を飛び出し、自由に生きてみたいと思うだろうが、ツネさんは養父母の教えに忠実にしたがう昔風の女性だった。イシさんの意志にさからったことはがないと思う。四人の息子と四人の娘を生み、立派に育てた。それでも、晩年は叔父一家と離れて暮らさざるをえなくなり、気の毒だった。
>>伝蔵さんもツネさんに対して懺悔の気持ちがあるだろう。
ーーそれはあっただろうね。たいていの男にはそれがあり、小説のテーマになっている。自我を捨て、相手の気持ちに寄り添うことが生き甲斐になった男の例は谷崎潤一郎が『痴人の愛』で描いている。
返信:【Re_長谷部神社】
「藤太郎実信」は、京の本妻(日吉社の娘=雅楽氏)の長男で。伯耆に流された信連を追って、部下数名と金持村に入ったとある。その後、信連は、鎌倉御家人として能登の大屋荘を知行するが、「藤太郎実信」は父を想い、日野厳島神社を勧請し、日野長谷部氏につながったということのようだ。
一方、備後長氏は、「金持村の女」との子「良連」系統ということになるかな。どちらにしても、日野を地盤にしていたということになるね。しかし、日野長谷部氏、備後長氏は、共に長谷部元信が自系統と主張しているわけだが、まあ、こればかりはわからないね。
次に調べなければいけないのは、長牛之助だね。牛之助は、上月城の戦で、尼子再興軍に参戦し、豊臣秀吉から感状をもらったことになっている。「尼子の落人」と称するひとつの要素だ。
そして、松田氏。長谷部の隣の地に住んでいる松田氏との親族関係が証明されれば、「尼子の落人」の真相につながる。伝蔵さんとツネさんの養子縁組は、長谷部氏の血もあるのだろうが、あきらかに尼子氏の血を意識した縁組にみえる。