【47日目】向こう一軒両隣
ご隠居からのメール:【向こう一軒両隣】
大川(高瀬川)という一筋の川が北東から曲がりくねって村を縦断し、川沿いには道路ができている。その川と道路をはさんで、四軒の家があった。長谷部家の庭前からながめると、向こう一軒両隣で、その他は山山。向こう一軒は亀三叔父さんの分家、右隣が松田氏、左隣が信谷氏だった。
隣村の親戚、見田氏のことはよくわからないが、大原氏から養子をとっているので、結局、見田氏も松田氏のDNAになっている。見田さんのおじいさんは津弥(つね)さんの弟だ。
長谷部氏のDNAは友治郎・夫妻に子がなかったので、いったんとだえたような印象も受ける。平成のはじめに、亀三おじさんが喜代三郎百年祭の法事を営んだことがある。喜代三郎さんは伝蔵さんが我が家にいたころの人で、墓もあるが、詳細は不明。
左隣の信谷氏は、長谷部の分家だと言われていた。長谷部氏のDNAはむしろ信谷氏に伝えられているはずだが、女の子の多い家だった。
返信:【Re_ 向こう一軒両隣】
長谷部の分家が信谷氏なんだね。長谷部信連の「信」と長谷部の「谷」の字だね。そうすると、長谷部一族は名を変えて現代に続いているのか。。喜代三郎さんを探しているうちに備中幕末名主の一覧を見つけ、この中に以下の名前が記されていた。
(※参考資料「備中村鑑 上・下」)
【御高一萬八千石・関様・御屋敷・新見】
・九百二十四石九斗三升四合二勺/釜村/土岐嘉五郎
・七百六十二石六斗八升九合七勺/高瀬村/伊田助左衛門
・二百九十五石二斗四升二勺/井原村/安藤定蔵/同薫太郎
・四百八十九石三斗八升四合四勺/千屋村/田村七左衛門
・千四百七十七石五斗四合五勺/菅生村/大庄屋/西谷幾三郎/同岩之丞
伊田左衛門さんの名前は聞いたことあるかい?高瀬村の庄屋だったようだ。
また、菅生村の西谷幾三郎さんは、西谷家の家系図の最後に記載ある人。喜代三郎さんが=幾三郎さんなら、「長谷部」の名を残しながら36町歩の森林がある理由につながるよね。
仮説にはなるが、西谷氏は長谷部の分家。「長丑之助」の遺産を相続した「長信成」が高瀬村の土地を手に入れ「長谷部」の名を残した。
難波の名前もチラホラあるからどこか、関係あるかもね。苗字帯刀御免のなかに、太田氏の名もあった。他にも太田氏一族は、備中一帯の庄屋になっている様子が伺えるが、長谷部の名はやはり、ない。不思議だな。