見出し画像

■【より道‐50】家系図から読み解く京極氏との血縁

代々、我が家には、「ご先祖さまは、尼子の落人だ」という云い伝えがありまして、この家訓のようなものは、令和の現代まで語り継がれてきました。

自分も、noteに『息子へ紡ぐ物語』と題してファミリーヒストリーを記しているわけですから、これからも子孫が続く限り伝わっていくはずです。

でも、やっぱり尼子氏なんです。渋谷で街頭インタビューをしたとしても、ほとんどの人が知らない一族のことを、我が家では無理せず自然に語り継がれてきたわけです。

ご隠居の故郷である岡山県新見市神郷町高瀬に名もない「尼子の落人」のお墓があります。その人の生きざまから言い伝えが続いてきたのであれば、500年前に語り継がれた根っこの部分が、どうしても気になります。

それは「誇り」なのか、「恨み」なのか、「願い」なのか。「長谷部」の氏と一緒に後世に伝えたかったこととは、いったい何なのでしょう。

戦国期に長谷部元信は1555年(弘治元年)「厳島の戦い」で毛利元就と共に戦いました。すくなくとも1555年(弘治元年)の時点では、尼子氏ではなく毛利氏の武将だったということになります。

しかし「家系図」をながめてみると、長谷部元信の3代前に長谷部家連という方がいまして、その横に、「女:京極氏室」と、「女:小嶋氏室」と書かれている方がいます。

長谷部家連の姉妹、もしくは娘ということになるのでしょうか。せっかくなので、今回は、尼子氏の始祖と言われている京極氏について調べてみようと思います。


■ 鎌倉時代の京極氏
京極氏のご先祖さまを辿ってみると、京極氏は、源氏二十一流系統の代59代・宇多うだ天皇の流れ、宇多源氏の血筋である源章経みなもとのあきつねが、近江国(現:滋賀県)佐々木庄を発祥の地としたことで、佐々木と名乗りはじめた一族のようです。

いつも通り出鼻から心くじかれますが、京極氏のご先祖さまは、宇多天皇の血筋から臣下となった源氏一族ということですね。佐々木氏は、平家打倒の「源平合戦」に4兄弟で参戦して活躍したそうです。

「鎌倉殿の13人」で言うと、源頼朝のもとにいち早く参じていた、歯がなくて何を話しているかわからないお祖父さんと、その息子4人が佐々木氏になります。「源平合戦」に勝利した後は、本領であった近江国を始め17か国の守護を任されたそうです。

しかし、源頼朝が死亡して北条氏が鎌倉幕府の執権を握るようになると、第82代・後鳥羽天皇が政権を朝廷にもどすために討幕を企てました。

そのとき、佐々木氏一族の大半が後鳥羽天皇に従属して「承久の乱」を起こしましたが、幕府側が勝利したことで、佐々木氏一族のほどんどが粛清されてしまいました。

しかし、戦国の世の戦略といいますか、佐々木氏のなかで一人、北条氏側、幕府側に仕えていた者がいました。それが、佐々木信綱ささきのぶつなです。

佐々木信綱は、近江国をはじめとする数か国の守護職を任されることになったので、4人の息子たちに所領をわけることにしました。そして、その4人の子供たちが、あらたな名字を名乗りあらゆる氏祖となります。

長男は大原氏。次男は高島氏。三男が六角氏、四男が京極氏です。

なかでも、四男の京極氏は鎌倉幕府の要職につきながらも足利尊氏あしかがたかうじの幕府離反に賛同して室町幕府を支える有力者にまで成り上がったそうです。

その足利尊氏を支えたのが、佐々木高氏ささきたかうじまたの名を京極道誉きょうごくどうよ。派手な格好を好み上下関係なくふるまうという有名なバサラ大名です。

そして、京極道誉の孫である京極高詮きょうごくたかのりの時代に、山名一族の家督争いから発生した「明徳めいとくの乱」が起きます。

京極氏は幕府方として乱を鎮圧したことで、山名氏に変わり出雲・隠岐の守護職を任されました。さらには、室町幕府の四職、いまでいう、警察や軍、徴税の長官につくことになったのです。


■尼子氏の始祖
そして、出雲・隠岐には京極高詮の弟である、京極高久が派遣されまして領地を治めることになります。この京極高久が尼子氏の氏祖となり、尼子高久と名乗りました。

我が家の「家系図」に記載されている「女:京極氏室」というのは、年代や立地から考えると尼子高久の妻だった可能性があります。

しかし京極氏は、鎌倉時代からご先祖さまが従属していたと思われる山名氏と対立関係にあった一族のはず。一体なぜ親戚関係になったのでしょうか。

おそらく、「明徳の乱」で失墜した山名氏と関係を保ちながらも山名氏の代わりに出雲・隠岐の守護職となった京極氏と政略結婚をすることで、家を存続させる道を選んだのではないかと推察しています。


■もう一つの出雲源氏
最後に、もうひとりだけお付き合いください。実は佐々木氏のなかで平安時代末期に発生した「源平合戦」で平氏に味方をした人物がいます。

それは、源頼朝に駆け付けた4兄弟の腹違いの弟、佐々木義清ささきよしきよという方です。

佐々木義清は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でいうと、國村隼くにむらじゅんさん演じる大庭景親おおばかげちかの娘と結婚していたため平氏側につきました。

しかし、佐々木氏というのは、室町時代の「承久の乱」で後鳥羽天皇が、北条氏の鎌倉幕府討幕を企てたときもそうですが、兄弟を敵味方に分けて血族を未来に残すというリスクヘッジをこの頃からしていたということがわかります。

しかも、佐々木義清は平氏に味方をしたのにも関わらず鎌倉幕府が開かれると4兄弟の活躍のおかげで、鎌倉御家人にまで成り上がることができたそうです。

そして、出雲の地で、出雲源氏として佐世させ氏と称したと言われています。

佐世氏は、その後、隠岐おき氏・塩冶えんや氏・富田氏・湯氏・高岡氏などの支流にわかれて存続していましたが、京極氏が守護職になるとバサラ大名、京極道誉の指示のもとで孫の尼子一族を支えたと言われています。

しかし、なんで、こんなにコロコロと名前を変えたのかなと疑問に思います。

恐らくですが「明徳の乱」もしくは、南北朝問題が解決したとき、与えられた領地を主張するために、一族各々が新たな名字を称したのだと思います。

氏(血族)と名字(家族)。ときには、敵味方分かれて戦いますが、本質は一族を残すこと、血族を残すことに日本の歴史があると思います。

自分は、長谷部氏の名字を名乗っていますが、「尼子の落人」の子孫として、京極氏、そして、佐々木氏、源氏のDNAを現代に語り継いでいる。

それが、先祖代々「尼子の落人」と語り継がれてきた理由だと思いました。


<<<次回のメール【151日目】主家再興

前回のメール【150日目】語る資格>>>

いいなと思ったら応援しよう!