【68日目】もうすぐ帰ります
ご隠居からのメール:【もうすぐ帰ります】
大同から天津までの距離はおよそ500キロか。Go To Travelで誘われたとしても、今のオレの気分なら断るね。
小津安二郎監督の映画『戸田家の兄妹』をDVDで観たが、たしか昭和十五年頃、主人公が天津へ渡る場面で終わっている。天津は第一次世界大戦で日本がドイツから奪いとって賑やかだった港だ。原節子は出演していないが、高峰美枝子など当時の代表的な女優たちにより、当時の中流階級が漂わせていた一種独特の品の良さが表現されている。
戦前の岡村家は戸田家と雰囲気が似ている。悲運の一家を支える弘さんには当然大きな負荷がかかる。後年、佐藤家の養子になったのもその後遺症ではないかと今にして思う。
弘さん夫婦が佐藤信安家の養子縁組を結んだのは昭和三十七年頃だったと思う。その頃、オレも東京でサラリーマン生活をはじめた。世田谷に親戚がいるのは心強かった。弘おじさんは、音楽鑑賞や読書を愛好する中流階級の趣味人で、成り上がり者の実業家を嫌っていた。
返信:【Re_もうすぐ帰ります】
昭和十五年で貴美子さんが26歳だから、昭和四十年頃というと弘さんは、60歳過ぎになるね。すると、徹さんは、30代後半くらいかね。佐藤信安さんからすると、弘さん、博子さんの養子縁組というよりも、徹さんを、佐藤家の養子にしたかったということか。後継が続かなかったから、色んな人の願い叶わなかったね。残念なことだ。
養子縁組を決めたとき、祖父母の素さんやはるさんも、亡くなってるのかな。その時に弘さんは、潔さんに当主を譲ったのか。
本投稿には、昭和十四年〜十五年にご隠居さまの母であり、自分の祖母である長谷部貴美子さんが、満州国哈爾濱、中国大同及び張家口から京都在住の母との手紙のやり取りを現代語に訳した内容を掲載しておりますが、この「note」掲載の本来の目的は、あくまで、子孫たちへファミリーヒストリーを伝えるための記録として利用させていただいております。手紙の内容は、ご本人のプライバシーを考慮して閲覧制限させていただきますことをご了承いただけますと幸いです。
書簡集(※題名は筆者が命名)
● 書簡001_令和三年(2021年)二月:喜久子(享年102歳)永眠の知らせ
⇒塩田雅子(喜久子:娘)からご隠居(貴美子:息子)への手紙
● 書簡002_令和三年(2021年)二月:叔母様(貴美子)の手紙を送ります
⇒塩田雅子からご隠居への手紙
● 書簡003_昭和十四年(1939年)十一月十六日:新天地到着のご報告
⇒長谷部貴美子(ご隠居:母)から岡村はる(ご隠居:祖母)への手紙
● 書簡004_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大同での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡005_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大豆の研究について
⇒長谷部輿一(ご隠居:父)から岡村素(ご隠居:祖父)への手紙
● 書簡006_昭和十五年(1940年)一月六日:新年のごあいさつ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡007_昭和十五年(1940年)二月一日:幸せな新婚生活
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子(貴美子:妹)への手紙
● 書簡008_昭和十五年(1940年)五月二十七日:悲しみの訃報
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡009_昭和十五年(1940年)六月二十日:日本に帰りたい
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡010_昭和十五年(1940年)六月:里帰り出産
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡011_昭和十五年(1940年)七月:もうすぐ帰ります
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡012_昭和十五年(1940年)八月九日:帰郷中止のお知らせ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡013_昭和十五年(1940年)九月一日:張家口での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡014_昭和十四年(1940年)十二月:結婚のお祝い
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子への手紙
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