【355日目】ナムアミダブツかアーメンか
ご隠居からのメール:【ナムアミダブツかアーメンか】
人間は罪深い存在である。常日頃は勇ましい言動をしていても、死の淵に直面すると、気が弱くなり、神仏に頼りたくなる。死に瀕したときに、どんなホンネをもらすかを含めて総合的に判断しなければならない。たとえば、正宗白鳥がアーメンととなえ、佐藤紅禄がナムアミダブツととなえて、あの世に逝ったのがその例だ。人間の本質は常日頃のタテマエの言動だけで判断すると真相を見誤る。
ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)は、阿弥陀仏への帰依を表明する定型句で、「わたくしは阿弥陀仏に帰依いたします」という意味。アーメンはヘブライ語で、「まことに、たしかに」という意味である。
もちろん、いまわのときに、そんな呪文のようなことばを口走る義務はない。ひたすら沈黙をまもって、最後の息をひきとる人も少なくない。その点、人間は自由であり、平等であるともいえる。
返信:【Re_ナムアミダブツかアーメンか】
死ぬ直前に「南無阿弥陀仏」か「アーメン」と唱えるのは、漠然とした死の恐怖というよりも、本質的には、「変化することが恐い」のだろうか。それとも、今生に未練があるので、神様や仏様に懇願しているのだろうか。
そう考えると、今際の時に、覚悟をきめ、辞世の句を残した英霊のみなさんや、日本の武士たちは、命を最大限に輝かせているようにみえる。靖国神社の桜の木には、そう言った人たちのみえない願いが込められているのだろうな。
現代の人たちが、靖国神社に祀られることはない。守ってきた土地もなければ、墓もないとなると、ご先祖さまのことを知ることもできない。「息子へ紡ぐ物語」は、ご先祖さまを尊ぶお墓よりも重要な伝記になるかもしれないな。