■【より道-4】長谷部さかな
父とは11時に東京品川区にある大井町駅で待ち合わせをした。しかしこの待ち合わせには、少々不安なことがある。それは、父が82歳の高齢ということ。そして、携帯電話を持っていないということだ。
だから、現地に到着してから父と連絡がとれない。なので、ちゃんと待ち合わせの場所にいてくれたらいいのだが、、
大井町は出口がそれほどたくさんあるわけでもないし何とかなるか。淡い期待を持ちながら東急田園都市線に乗車し、溝の口駅で東急大井町線に乗り換えた。電車のなかでは親友の小野崎や姉と今後のことなどをLINEで相談しながら、約束の時間までに大井町の駅についた。改札をでてあたりを見渡す。
あぁ、不安が的中してしまった。案の定、父がいない。
すぐさま、実家に連絡をすると母が電話にでた。「お父さん、ずいぶん前に家をでたわよ。もう、大井町の駅についているんじゃないかしら。お父さん携帯電話もってないから困るわよね。お父さんから電話が来たら連絡するわ」
困った父親だ。不器用にもほどがある。
父親は1939年3月7日生まれの82歳。生まれは、満州国哈爾濱市。日中戦争の真っ只中に誕生した。1歳で実の母と妹を亡くし実家の岡山県新見市神郷町高瀬で6歳の時に終戦を迎えた。
祖父は関東軍に所属し戦時中に義理母と再婚。祖父と義理母のふたりから、腹違いの妹と弟が生まれた。終戦後の祖父は、岡山件新見市新郷町大字高瀬の村長を歴任し、駅のなかった農村に新郷駅を開通するという偉業を成し遂げた。
しかし実家には、父の居場所がなかったのではないかと、話の節々から感じている。中学の頃から勉学に集中するため隣村の親戚の家に下宿しながら高等学校に通い、みごと京都大学に合格した。しかし、祖父からは官僚になるために、京都大学への進学を進められたが、父が選んだのは大阪外語大学だった。反骨の意味があったのか、理由はわからない。
その後、水産会社に就職をし60歳で定年退職。会社員として働きながら、50代で作家デビューをし、世に文学を広める活動をしていると、岡山県文化財団が主催する内田百閒文学賞で、随筆「山椒魚の故郷」が最優秀賞を受賞した。その後、長谷部さかなとして「俳句極意は?―回文俳句いろは歌留多」などを出版。売れない作家として年金をもらいながら老後を過ごしている。
自分にとっての父は、サザエさんにでてくる波平さんのようなヘアスタイルをしており、とても頭がよく英語が堪能。サラリーマン時代は、よく海外出張でニュージーランドやオーストラリアに行き、お土産を買ってきてくれていた。
麻雀や競馬などのギャンブルを父から教えてもらた。お正月には、父や姉たちとコタツを囲み、テーブルを裏返してジャラジャラと牌をまぜ、ミカンをかけて家族麻雀をしていたことをよく覚えている。
生まれてから父に怒られたことは1度だけ。それも、いま考えると岡山に帰省したころ親族の集まりでやんちゃ坊主だった自分が、自己主張や承認欲求を満たすためにワガママを言ったのだろう。周りの親戚から親としてしっかり対応するよう言われ、平手打ちで顔を殴られた。あの時は、普段優しい父に怒られたことがとてもショックだったが、普段はとても温厚で母の嫌みをいつも飲み込む我慢強い姿が印象的だ。
自分が大人になり、サラリーマンとして悩みがあるときは父に相談し、いつも味方でいてくれた。生活面は不器用でポテトチップスの袋も開けられない。好きな食べ物は魚とイカと胡瓜で、初老のころからは、ステーキ肉を食べる機会が増えていった。服装はズボンのチャックが常にあいている。シャツはズボンから片方でている。無骨な秀才を、絵にかいたような人だ。
健康には気を付けていて毎日散歩をする。定年後にはプールなどにも通って泳げるようになっていた。それでも、運動神経はそれほど良くない。本人も公言している。
子供は4人、長女、次女、長男、三女の6人家族で、三女以外は、結婚し7人の孫に囲まれながら幸せな余生を過ごしている。そんな父親のことを自分は、幼少のころから中年になった現在でも尊敬し続けている。