【214日目】ファミリーストーリーの三原則
ご隠居からのメール:【ファミリーストーリーの三原則】
ヒストリー(history=物語)はストーリー(story=物語)である。物語ならどんなテーマでも自由奔放に書いてもよいはずだが、ファミリーヒストリーの場合はそうはいかない。ある程度のしばりをかける必要がある。
そのようなしばりのつもりで、私が試みに思いついたのは次の三原則である。
「先祖自慢をしない」というしばりは、随筆『尼子の落人』が読者から浴びた思いがけない批判に由来する。「先祖自慢をしているね」と批判したのは、親しくつきあっていて、私が書いたものをよく読んでくれていた従弟だ。
随筆は、ご先祖が尼子の落人という我が家の歴史を調べているうちに、実は尼子の敵である毛利の落人ではないかという疑いが出てきて、備後の山中まで調べにゆくというストーリーに基づいているが、結論としては、昭和二十年八月十五日の敗戦により日本人すべてが落人になってしまったという自虐史観のメッセージをこめたつもりだった。
ところが、私のその落人気分は、批判者である従弟には通じなかった。従弟は、むしろ、落人気分に隠されている虚栄心のくさみをかぎとったのである。随筆を読み返してみると、たしかにそのようなくさみがないとはいえない。
二つ目は、声なきつぶやきのような批判で、要するに、ご先祖はみな仏さまになっているのだから、黙々とお墓の草取りをし、先祖代々のしきたりにそって、法事を営むだけでよい、生前の言行を調べたりするような不心得を起してはいけないという村人たちの常識的な意見だ。
しかし、このような二つの高いハードルを課せられると、ファミリーヒストリーはまことに書きにくい。一つのハードルだけなら何とかクリアできるかもしれないが。二つのハードルを同時にクリアするのは不可能に近い。思い悩んでいるうちに、時間が容赦なく流れ、私は「尼子の落人後日譚」の執筆を先延ばしにし続けた。
そのうち、従弟が孤独死をとげ、仏さまの仲間入りをした。「先祖自慢にならないような後日譚を早く書いたらどうだ」と背中を押されているような気がする。しかし、そのためには、もう一つの新しいハードル、というよりもアクセルがほしい。
それが、三つ目の「パンドラの筺に隠れている「希望」を見つける」というアクセルである。パンドラの筺の蓋をあければ、病苦、悲哀、嫉妬、貪欲、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這いだしてくるが、筺の隅には小さな光る石が残っている。その石に幽かに書かれている文字は「希望」だ。「希望」が見つかれば、良質のファミリーヒストリーができあがるのではなかろうか。
返信:【Re_ファミリーストーリーの三原則】
諸々提案を頂いた件、承知した。指示内容は反映したので確認してみて。お父さんに編集、校正してもらえるというのは心強いよ。引き続きよろしくお願いします。
次回の【より道】は、随筆_「辰五郎と方谷」を掲載する予定で、全九話を三話ずつに分けて掲載する予定。その後、「見田守登さん、戸籍謄本、手紙が出てきた話」を展開する予定だ。
手紙については、お父さんの意向もあるだろうから、掲載方法や内容は検討が必要だね。今後、「息子へ紡ぐ物語」を家族も読むことを想定すると、貴美子さん(祖母)の、現代語に訳した手紙は残しておきたい。
ただ、プライバシーの侵害になるため、SNS上に開示するのも気がひける。金額を10,000円に設定するなども考えてみたが、検討が必要だね。近くなってきたら相談するよ。
正直、貴美子さんには、現在進行形で助けられているというか、こっぴどく怒られている気がしてならない。「このままだと、大切な人を再び失ってしまうよ」とメッセージをうけている気分だ。
そういう意味では、「尼子の落人」の家訓よりも、会ったことのない貴美子おばあちゃんの手紙の方がじぶんにとっては、精神的な言い伝えとして残した方が良いかもしれない。
前回の話【より道‐71】戦乱の世に至るまでの日本史_「足利一門」三管領・細川氏>>>