【181日目】「尼子の落人」後日譚の構想
ご隠居からのメール:【「尼子の落人」後日譚の構想】
昨日、長女が実家にやってきて、『パンデミック体験記』を読んだが、結末のわけがわからないと言っていた。ダニエル・デフォーのあの警句は、おれが七十年近く悩まされたものなので、そう簡単には理解してもらえない。
今日からは『尼子の落人』後日譚の史料集めにとりかかるが、まず頭の整理をしておこう。念頭におくのは、 『尼子の落人』という言い伝えのある御先祖さまが実は毛利の武将だった疑いがあるということだ。その根拠は「姓」「碑銘」「家紋」「系図」などにもとめているが、いずれも決め手にはならない。
そこで、毛利の武将の末裔がなぜ尼子の落人と称したのかという疑問を解明することから出発したい。落人一族の存続のためにはそう称することが必要だった、あるいは都合がよかったと推理するのが理にかなった考えだろう。ご先祖さまは実は毛利の武将だったという正体を見せるのは都合が悪かったのだ。
次に、誰に対して尼子の落人と称したかという側面にも注目したい。その誰かは一に村人であり、二に時の権力者(代官)である。村人の中でも特に、右隣の「はちまん」松田氏を強く意識しざるをえない。左隣の信谷氏は幕末に長谷部氏から分家したので、ここでは意識しなくてもよいが。
東寺百合文書の「備中国新見庄分布図」(文永十年(1273))には、大原という地名、秋末という名田、そして重久という名田が載っている。重久の隣は八幡神社だ。この時代は、下地中分といって、同じ村の中でも土地は地頭方(地頭は新見氏)と領家方(領家は東寺)に分かれているところがあった。この村の名称は文永十年の当時は吉野村だったが、後になぜか高瀬村と改称された。、、
時代が下って、幕末から明治の頃になると、重久は屋号「はちまん」の松田氏、秋末には屋号「おおはら」の長谷部氏が定住していた。
返信:【Re_「尼子の落人」後日譚の構想】
ダニエル・デフォーの「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらい理にかなったことである」という警句の意味については、自分もよくわからない。
「ある種」を「コロナ」という言葉、「あるもの」を「戦争」とあてはめると、『ウィルスによる不自由な生活をしいられることは、他国が侵攻してきたときに身を守る行動をとることと同じようなことだ』、つまり、未知なる危機に怯えている状態を揶揄してるのかな、、、、
今度は、「コロナ」と「戦争」を逆にしてみると、『敗戦国の監禁状態を戦勝国が表現することは、コロナという未知なるウィルスを治療する薬ができるということと同じようなことだ』つまり、戦争で占領した国の言っていることはまやかしだと批判してるのかな、、、やっぱり、よくわからないわ。
ご先祖さまが尼子の武将ではなく、実は毛利の武将だったと疑う根拠に「菩提寺」も入れといて。しかし、それでも頼りないか。
「尼子の落人」と称したほうが都合が良かった理由は、「一族」もあるのではないだろうか。先祖や子孫に対して「尼子の落人」と武士の筋を通した。それほど、元信の行為は、筋が通っていなかった。
いや、そうか。やはり高瀬村の人々に対して「尼子の落人」だと伝える必要があったのだ。なぜなら、長谷部元信が秋末氏、重久氏を追い出しているから。高瀬村に住む大義名分、正当性を主張する必要がある。自分たちは、毛利家臣の長谷部とは違う長谷部だと村民に理解を得る必要があった。
そう考えると、松田氏が庇ってくれたことになるね。1566年(永禄九年)「月山富田城の戦」の尼子氏滅亡時に松田氏が帰農したと考えると、1578年(天正六年)「上月城の戦」もしくは、1600年(慶長五年)の「関ヶ原の戦」後に長谷部氏のご先祖様が帰農した。すなわち、12年~34年間は、松田氏が「おおはら」の地を守っていたのではないかね。
ご先祖様が落ち延びるときに、頼ったのは松田氏だ。松田氏はすでに高瀬村で、「尼子の落人」と称して村に定着していたと推測されるから、尼子再興軍の落人と称すれば、あの地に定住できる。事実、毛利氏から寝返っているので、嘘偽りはないだろうしね。
このように考えると、1578年(天正六年)頃に高瀬に土着したと考える方がスムーズかな。「関ヶ原の戦」後だとすると、松田氏が土着した34年後になるから、「尼子の落人」と称する必要性が少なくなる。