人生のやすみじかん
小さい頃から ふと、神さまが休み時間をくれることがある。私のなかでの、神さまがくれる休み時間というのは、みんなと一緒に保育園や学校で過ごしている何気ない時や日々仕事に追われ日常にガッツリ張り付いている時に、或いはもうダメだー!と助けを呼んだ時に、ひょいっと引き上げられて、半ば強制的に心身のリフレッシュと、それまでの在り方を俯瞰し自分を労う時間を与えられる時間のことである。
保育園の頃だと、これは小さな休み時間だけど、母が突然、わたしの大嫌いなお昼寝の時間に救世主のように現れ、さあ帰ろ!今から海に行くよ!って、ファンタオレンジとポテチとおにぎり、それからビニルの匂い強めの大きな浮き輪を持って、大好きな海に連れてってくれたことが幾度かあった。
保育園を8時-16時の監獄のように感じていたのでその開放感たるや、ショーシャンクの空さながらであった。今でも、保育園の最高に暗い思い出と、海にエスケープできた光の世界のコントラストは、わたしの原風景となり、極端な発想を内側に想起させる因子の一つとなっているかもしれない。
成長し、肺炎や腸の炎症などで一週間ほど入院になった時、或いはバリバリに陸上を頑張っていた時につま先を骨折してしまった時も、それは人生の休み時間として機能した。頑張り過ぎていたなぁとか、生きてるだけでありがたいんだなぁとか、家族や友達、先生達に感謝したり、出たい大会に出れない悔し涙で心底爽快になれたりして、普段必死に結果を出そうとすることは、人生に於いて実はそんなに重要なことでもないんだなとか、それまでの棚卸しをさせてもらっていたように思う。
結婚し、当時真剣に時給自足のエコビレッジを作ってお金の要らないコミュニティを作りたい!と考えていた時のことだった。スケッチブックに虹の絵を描いていた時に、久しぶりの友人からAnriー!!と電話がかかってきた。ずっと行ってみたいと願っていたレインボーギャザリングが、今度タイで開かれること、そして一緒に行かないかという誘いの電話だった。因みにレインボーの開催はネットやフライヤーなどでオープンになることはなく、口づてに知らされないと、知ることも行くこともできない知る人ぞ知るギャザリングだったのである。
(※レインボーギャザリング…新月から新月までの1ヶ月間、必ず国立公園で開催される、ベジタリアンフード、ノーエレクトロニック、ノーアルコール&ノードラッグにこだわったLove&Peaceのカウンターカルチャーキャンプ。初回は1972のコロラド)
『え!!まぢで!?絶対行きたい!しかもタイ?いつなの?』と大興奮で聞いてみた。しかもタイ?というのは、それから一ヶ月後の年末にタイの知人のエコビレッジにウーフィングに行く予定だったのだ。そして、なんと念願のレインボーギャザリングは、タイに滞在予定の期間に丸かぶりだった。その一年前に流産とか、もう一つ地獄の爆弾のような人生を大きく揺るがす事件に巻き込まれていたために、その後の瞑想リトリートといい、タイでの時間といい、まさに神さまからの休み時間となった。
我武者羅過ぎて猪突猛進になっている時、このままじゃダメだ!神さま助けて!とSOSを放った時、或いは自分で気付いてないけど、そのまま進むのはよろしくない時に、必ず神さまが休み時間をくれる。
神さまって言うのは、人型の白髭のお爺さんみたいなのが神さまではなくて、宇宙のすべてを生み出したソース、源のことをGOD・神というのだそう。
医者だった知人が前に言っていた。精子と卵子が出会い、受精してから最初の第一拍目は一体誰か押しているのか、非科学的に聞こえてしまうかもしれないけど、やっぱりそれは神という目に見えないチカラなんだよね、と。
葡萄の出荷が近づいている今ではあるのだけど、実は今も、意識のなかで人生のやすみじかん的エネルギーが流れ込んでおり、自分の内側の、今まで構築してきた概念が壊され、やわらかで新しい自分にとってより本質な何かが目を覚まそうとしている。
さて、ホッとティタイムにしようかな。
休みが好きな私なのである。
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