研究雑記①「インターネットで社会学ってなんだよの話」
大学院の博士前期課程も後わずかになり、4月からは予定通りであれば民間企業に就職します。在野で論文漁ったり専門書買ったりとかはすると思いますが、それでも正規の研究課程からは外れるので、何とかなくメモがてらに自分の研究を振り返りつつ、それっぽいことを書いていこうと思います。
目次
社会学って結局なんだよ
社会学って結局社会の役に立つの?
インターネットで社会学ってなんだよ
1.社会学って結局なんだよ
さて、僕の専門はTwitterとかで嫌っている人が見ることも多い社会学です。まあ、他にも色んな言い方ができそうですが、僕は多分「社会学」って言うと思います。「ネット文化」とか「メディア論」とかそういう括りで言うこともできるでしょう。ただ、自分の中では大きく「社会学」とした方がしっくりきます。その中で、テレビ的な言い方をすれば「インターネット文化がご専門」になると思います。
僕は学部1年の時に社会学の基礎の講義を取っていた時に、その先生が「社会学者に『社会学とは』っていう問いを投げたら皆違う回答が返ってくるよ」的な事を言っていたことを覚えています。僕もそれから6年間学び続けて、研究もしてみて自分なりの「社会学とは」の回答を持つようになりましたが、これも多分他の研究者と違うところがあるんじゃないかなって思っています。
先に自分の行きついた「社会学とは」の問いに答えます。僕の定義は「人間によって構築された社会の諸々を分析すること」です。そして根本的には「過去から現在」の学問であると考えています。
インターネット上で社会学者が中途半端にしゃしゃり出ては炎上するといったことが起きていますが、これは社会学者が社会学の本質を見失っているからこそ起きている現象です。社会学は別に「社会とはこうあるべきだ」って規定する学問じゃないんです。「社会は今こうなっている」が社会学です。末尾に「これからこうなっていくのでは」っていう推測はするときもありますが、研究の本質は、ある点から今にかけての社会現象を分析することにあります。決して「社会は今こうなっているから、このようにしなくてはならない!」っていう風にはなってはいけないのです。それは活動家の仕事です。
このように考える理由は、僕が社会は社会学者が規定するものでは無くて、その社会を構成する人間が規定するものだと考えているからです。社会学者は俯瞰で社会を見ているから、その規定を把握することができますし、それを受けて社会の構成員に対して「提案」はできますが、その「提案」を実行するのはあくまで構成員、もっと言えば社会です。理想でエンジンは動かない。この原則は鉄則です。
2.社会学って結局社会の役に立つの?
じゃあ外からヤジ飛ばしているだけかよって話になるかもしれませんが、そういうわけでもありません。社会学者が分析した社会構造を誰かが知ることによって、それが事業になったり政策になったりします。というか社会学は未来を創る人達のために、現状を伝える学問であるべきです。
現状を伝えるためには、データを集めて分析する必要があります。ぶっちゃけこの辺りが目立つ社会学者の弱い所です。自分が見えた景色から社会を分析して提案する人が、恐ろしい話ですが居たりします。というかTwitterで炎上している人は大体こういう人だと思います。
ジェンダー論とか最たる例です。僕は専門外なので深いことは言えませんが、ジェンダー論は元々「性差は有れど、同じ社会を構成する人間であるならば権利として同等に扱うべきではないか」ということを言いたかった学問だと思います。実際それを受けて男女雇用機会均等法といった法律が制定されたり、一般に男性より力の弱い女性でも簡単に扱える製品が誕生したりしています。ここまではまだ健全な社会学と社会との関係です。
ただ、世の中にはフェミニストな社会学者もいるわけで、そう言う人は大変です。「学問」と「活動家」を上手く使い分けなければなりません。上野千鶴子がよく批判されるのはここがすごい曖昧になっているからです。「それはそれとして」の姿勢が外部にほとんど見られないことが批判に繋がっています。
結局のところ、「知識人の理想」と「社会の実情」は基本的にかみ合わないことが多いです。実例で考えてみましょう。トランスジェンダーの肉体は男性で心は女性の人が競技会に参加して良いのかという問題があります。ジェンダー論的な立場であれば、参加させるべきだという人が多いと思いますが、現状の競技会の形式として、肉体面に大きな差があるので、競技そのものが成立しない可能性もあります。もっと言えば心身共に女性だったプロ選手が、トランスジェンダーの登場によって稼ぎが減ることだってあるかもしれません。語弊を恐れずに言うと、トランスジェンダーの女性によってただの女性が脅かされる可能性があるわけで、それはそれで問題になります。
そこで社会学者が颯爽と登場して、この現状を客観的に分析し、その上で建設的な提案を競技会運営者行う。これが学者としてのあるべき姿じゃないかなと思います。このような社会の矛盾を客観的事実から分析して、それを受けて何か提案をする。それが当たり前にできれば、社会学が社会の役に立つって徐々に思えてくるのではないでしょうか。
3.インターネットで社会学ってなんだよ
最後に自分の身の上話をして終わります。僕はずっとインターネット文化、特に情報の拡散について研究していました。修論がちゃんと通って学位がもらえるまではネタバレしませんが、それなりに説得力のあるものは書けたんじゃないかなって思っています。
インターネットという空間はいまや一つの社会です。たくさんの人がアクセスして、様々な活動を行っています。それまで対面でオフラインで行われてきたことが通信回線を通してオンラインで行われるようになったのです。また、インターネットの登場とそれにアクセスする手段の多用化によって新しい活動も増えてきました。人々が多様な活動をする場所という意味で、インターネット空間は今最も研究するべき社会環境の一つではないかと考えています。
ただ、現状「インターネットで社会学」はまだ発展していません。キーとなる理論研究はまだまだ出てきていませんし、過去の社会学の文法に沿ってインターネットを論じる人もいます。
たしかに、人間はそう簡単に変わるものではないので、せいぜい100年ぐらいの歴史しかない社会学理論が応用できそうな気もします。ただ、人間以上にハードウェアそのものが大きく変わってしまっている現代で、既存の社会学理論がどこまで応用できるのかは分かりません。当然試してみますが、「これが書かれた時はインターネットなんて無かったよなあ」と頭に置いておきながら研究を進めないと痛い目を見ます。
だからと言って、好き勝手オリジナルで驀進し続ければ良いかと言えばそうでもありません。十全な実証データがあるならばなんとかなるかもしれませんが、「これまでの人々の営み」から「これからの人々の営み」へ先行研究を基に橋渡しをしなければ多分受け入れてもらえないでしょう。別に否定したっていいわけですから、先人の研究は大事にしましょう。
そういう意味で、インターネット社会特有の社会理論というものはまだ存在していないと思います。Twitterで物知り顔に書く人がたまにいるエコーチェンバー効果だって別にインターネットが登場する以前から問題になっていました。メディア環境がよりパーソナル化したからそれが異常に増幅されただけにすぎません。
身の回りの「ホンマか?」を実証主義的に解き明かすことが社会学の本質です。インターネットが社会の中心となりつつある今、ネットを使う人々の「ホンマか?」を突き詰めることがインターネットの社会学だと言えます。
僕は情報を主語において、それが広がる「ホンマか?」の研究を行ってきました。その「ホンマか?」を解き明かすために、様々な分野の研究を調べては考察しを繰り返してきました。結果として過去の記号理論のキメラみたいな論文になった気もしますが、僕にとってはその視点が一番説明しやすいからそうなったと言えます。
インターネットの社会学は「過去と現在」「リアルとネット」をそれぞれ結びつける学問だと考えています。日本にいる高校生の千人に一人でも興味が持ってもらえれば、めちゃくちゃ嬉しいなあ。といったところで今回は締めたいと思います。