同じ世界に住む者などいない(続やっぱりぼやきやな)
過去に興味がない。
歴史は好きだった、はず。
学校の勉強の中では、、、の話。
国語の音読は好き。
3行先を見ながら本が読めた時代は右目で現在「音」にだすところを見て、左目で3行先を読んで、体の中で「音」にしている。
そんな感覚で、スラスラと音読できたから。
そんなだったのに、今や本が読めない。なんでや?🧐
音読ならいつでも当ててくれって感じだったあ。
数字は嫌い。
なんでだろうね、耳がぱたんと閉じる。
そのた、体が拒否する系のものがいくつかあったかな。忘れたけど。
歴史は、その時代があったなら、その時この人はこんなこと思って、誰かと思いやって存在していたんだろうなーって「暮らし」を想像するのが好きだったね。
確かに生きていたという「息吹」として感じる。
なので、平ったくて、立体感の無い「もの」に対して異常に興味が湧かない。
そこにストーリーがあるとしても、肉肉しい立体感、血湧き肉躍る感覚がないと興味の対象にならないね。
そーかと思って、今文字にしてみたけど、、、w
やっぱり、過去に興味はないわ(笑)
これまでの偉人と言われる人が成し遂げてきたもので今が創り上げられている。
それに対して立ち止まって驚嘆していたとしても、今は刻々と進むのだ。
結局人は「自分にしか興味は無い」のが事実。
よそ見している暇はないのだ。
人が「文章を書く」行為は「わたしの話を聞いて!」と言う承認欲求なんだなーと感じる。
その文章に「共感」を産むように書くことで、その承認欲求は満たされていく。
え?
そうかな?
人は「もっともっと」の欲求の方が勝つんじゃないかな。
だから、いつまでも満たされなくて追い求めるもんだね(笑)
綺麗な言葉で飾っても「メッキ」は見える。
どれだけ自分を晒すか。
晒す自分をどれだけ見つめられるか。
晒された自分をどれだけ客観的に見れるか。
自分と言う他人をどう扱うかで自分に優しくなれるような気がする。
比べるのは自分以外の他人とでは無く、少し前の記憶があるうちの自分とである。
このnoteの世界には題材になる人がたくさん存在する。
過去に住む人。
自分もそこに住んでいたからこそ見える。
ん?
どうやってそこから「今」に住み替えられたのか?
さて、わたしは2秒先に住んでいた時代もあった。
いや、今も(笑)
イカせてないよね(笑)
がははねーさんは今頃どこにいるのやら。
がははと、今日を楽しむとするか(笑)
なんのこっちゃ
タイトルとちゃうこと書いてしもてる?
ごめーん。
いつものこっちゃ。
体に任せて書く。
これ楽しいよー。
ちなみに「自動書記」とは違います。
何かに反応してのことでーす。
人の期待とか、全く気にせず。
そんなもんに絡め取られてしんどなって、抜け出した。
それを感じ取れる自分に拍手。
鈍感さを手離したって感じかな。
同じ世界に住むものなどいないと書いたが、現在同じ空間に暮らす夫とはずーっと紀元前からご一緒です。
パラレルワールドとは、今現在同時にいくつもが存在してる、そんなビジョンを見ているうずまき🌀より。
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