おめでとう「ゼロ」に来たね。完璧なわたし。
今朝の夫氏とのあれこれ。
わざわざ「雨」が降り、その出来事は起きた。
色々思うことを言って来たけれど、一番言いたかったことを言えた気がする。
いっつも自分優先よね、それが嫌やねん。
たったこんな一言が言えずに35年。
見えていても言えないその言葉を投げ気味でも言えたことを褒め称えよう。
現象は幻想。
そこにはわたしの中のわたしがそうあらしめる「芯」があるから。
で、その後、苛立ちもあったが、今までみたいにその感情を押さえつけて、宥め透かして鉄の箱にガチャりとはしなかった。
いや、する必要がなかった。
覆い被せてさらに言葉を投げつけることも「要らない」と思えたのだ。
わたしの中の声はなにか?
そこからなにを自覚したのか。
あんまりつかめてはないが、、、。
どうやら相手を変えようとしたなー。
そして、自覚することや、気づきを見出すことは「責め」ではないこと。
責めたら余計に出てこない笑
相手を変えることは出来ないと良く聞くけれど、自分を変えるほどに無理なんだって笑
自分すら見つめられないのに、相手のことなんて全く見ていない。
で、夫に対して「ちゃんと相手(困ってる妻)を見てよ!」と思っていること自体、わたしがわたしに言ってることでしかないのだ。
自分の口から出る言葉はほぼ全て「自分がして欲しい」言葉なんだと理解した。
理解したと言うことは、これだな「自覚」は。
だから、わざわざストレスを発生させて「相手」に言わなくてもいいや、わたしに言って、わたしがその言葉の発生源を見ればいいんだって。
わたしはわたしを見ていないのだ。
わたしのして欲しいことをわたしが理解していない。
しっかりとくっきりと自覚したよ。
そうして、1人自分のなかで「自覚劇場」を繰り広げていてね、あ、また脳内ゲームだって笑うわたし笑
とはいえ、また能面になってしまったが、心の声を無理して作り笑いをしていたんだなって気づいたし、目の前に「あなた」がいるってことも幻想かも?って思えたらねー
わざわざ、その人のエネルギーを気にしながらわたしを存在させなくてもいいじゃないかと思えたのだ。
そうしたら、自分のやることは自分のやることとし、相手がやってくれることはやってくれることとして「区別」が生まれたのだ。
この区別を感じたことで、なんとなく割り切れたのだ。
わざわざ、気にして自分よりも相手を優先して自分を後回しにして来たなって。
いないと思ってみよう笑
わたしを含めて。
なんにも「いない」と感じてみよう。
その上で「在る」ものを感じたくなるタイミングがくるのを待とう。
そもそも、わたしは「ここにいる」のだ。
動かないのだ。
わたしはそもそも「自由」なのだ。
そう、あれもこれもすっかり忘れてしまっているが、思い出しが一気に起きそうだ。
そういう立ち位置にきたなって感じた。
つまり「ゼロ」を感じた。
おおお。
完璧なわたし。
おめでとう。
なんと素敵な55歳と一日目。
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めちゃめちゃ美味しいおはぎ。
ピンボケやん(笑)