どれもお母さんやで。偽物のお母さんなんてないから。
長女と話した。
わたしが気づいたことを話した。
出来ないこと頑張ってしていた、何者かになろうとしていた自分は偽物で、その残りが本物の自分だったと。
そう話すと、
どれもお母さんやで。
偽物のお母さんなんてないから。
って。
そうなんや。
偽物やと思っているのは自分ばかりで、誰もそこに区別はないってことか。
確かに、、、、
人の思っていることは人にはわからない。
近い答えを出したとしても、完全一致はあり得ないものね。
周りから見たら、区別はない。
どれも、あんた。
自分では不自然だと思っていたのに、それも人から見れば自然。
ん?
なんだ、この違和感は。
わたしの思い違いなのだろうか。
支援学校の先生をしている長女の話はいつぞやに書いた。
石投げ生徒の後日談を聞かせてくれた。
石を投げていた生徒の件は学校中で大きなことになっていて、今や生徒はその開拓された場所のプロデューサーだそうだ。
石を投げるという「行き場がわからなかったエネルギー」の向かう先をしゃらとポイント切り替えのようにしただけで、彼の能力を生させたという結果になったのだ。
投げごろの石がゴロゴロしていたその場所は、他の生徒までもが巻き込まれ、自主的に石ひろいをし、今度は「せんせ、この草引きしとくわ」と生徒と一緒にいる時間を「その場所に」とったら、なんとみんな草ひきし始めたそうな。
それだけではなく、なんと石ゴロゴロの場所が綺麗になってしまったそうな。
そしたら、今度は「花を咲かそう」と畑か花壇に発展したそうな。
たわいもない授業外の関わりが、学校中のプロジェクトに発展。
狙いがないわけではない。
ただ、その狙いは「決めつけた(一般的な世間に溶けこめるための)ゴール」ではなく、その生徒にとって溢れるエネルギーの矛さきを見てあげるかだけなのだ。
あくまでも生徒基準。
目の前の生徒を「人として」見ること。
長女本人の予想を超えて(いや予想なんてそもそも計画もなかっただろうに)大きく発展していることに、彼女は少し困惑していたかな。
自分がしていることを他の先生にも伝え、同じようなことが出来るように育てないと、、、的な言葉があった。
でも、どうだろ。
その人はあなたにはなれないし、その人はその人でしかないし。
基礎的な「思い」の部分が共通になるようにしてはいきたいね。
だって、その人にもその人でしか出せない味があるものね。
「息を吹き込む」
そんな感じかな。
結局、人はたくさんの人と関わりを持ちながら生きていく。
1人の人に頼り切った時、変化に対応できなくて絶望してしまう。
大丈夫、どうやったって乗り越えられるよ!
必ず助けはすぐ近くにある、受け取る準備をしておこう!
自分を信じて、もしなにかあったらいつでも帰っておいで!
そんな帰る場所があるんだと思えたら、踏ん張れる。
生まれて、死ぬ。
時間は過ぎる、体は尽きる。
大体は年功序列。
どうあっても命はバトンされるのだ。
自分が作ってもらえていた帰る場所。
今度は自分が帰る場所になる。
これもバトンされるもの。
あなただから。
これもバトンするんだね。
みんな素敵で素晴らしい。
生まれて来てくれたありがとう。
母にしてくれたことに感謝。