結局わたしは「わたし」を全然知っちゃいないってこと。
「わたし」を知ることをずっと求めて生きてきた。
でも、わたしは全然わたしを「知って」はいなかったという自覚を覚えた。
なぜそう思ったのか?
現実が変わらないのもあるが、
今とても違和感がある。
この体でいることに妙なズレがあるのだ。
体がイケナイ訳ではなく、なんとなくズレているなって感じるのだ。
昨日「ズレ」を何回も自分の口から吐いていたし。
自分へ意識を向けて初めて「自分と向き合う」なんだって、気づいたからかも。
ツールとして「呼吸方」「ヨガ」「瞑想」と次々と出逢っていく。
もちろん55になるわたしに「今初めて」ではなく、体験も何度もしてきた。
でも、その行為の意味が理解できてなかった。
ただ、その行いを行動すれば「変化させてくれる」ものだと思っていたのだろう。
どの行いも「自分への意識の向け方」なだけで、当の本人の「気持ち」の問題なんだって。。。
「どうせ」と言う感情が浮かんできてこびりついていて、それをなんとかしなくてはできないんだって、「どうせさん」を悪にして消去や上書きや「ないもの」「あっちへ行け」「おまえのせいだ」としてきた。
でも、それはなにも解決しないのだ。
どうせさんは「いる」。
わたしの一部だ。
どうせさん、ギューだ。
そして、自分が無意識にしている行為一つひとつに「意識を向ける」。
これなんだ。
小説を素敵だと思う時の共通点に気がついた。
そこにありありと在るような描写にまるで自分がそこにいるような臨場感を持ち、本の中に入る感覚になった時、気持ちが良くなる。
つまり、丁寧に「それを感じる意識」がそこに在るから。
そのことに気づいたうずまきは同時に『わたしは、なにも「自分」を知っちゃいなかった』と気づいたのだ。
歯磨きをしながら、、、
顔を洗いながら、、、
今、蛇口から水がやって来て、量の手がそれをお皿のようにして自分の肌に浸す。
いささか蒸発した毛穴が喜ぶ瞬間を今朝初めて感じたのだ。
そこにはなにも当たり前はなく、でも、当たり前で、わたしと言う存在を常に喜ばすために集まって来ていて、、、、
ただただ「ありがとう」とそれを対等に、いや慕ってくれるメイドのように「当たり前」に味わえばいいのだ。
謙遜も
遠慮も
卑下も要らない。
今ある全てがわたしを生かすために在るんだ。
わたしには受け取る価値があるんだ。
誰でもない、わたしのために。
そんな風に思っちゃイケナイと強く思い込んできた。
そう言えば「自分中心に地球回ってないよ!」とよく両親に言われていた。
よっぽどわがままだったんだろうな。
欲求がコロコロ変わって周りを振り回していたと記憶がある。
相手の反応で決めていたのか、かまってちゃんの仕業か。
いえ、自分中心に地球は回っているのです。
それ以外、考えられない(笑)
この時まで自分を巻き戻してみようか。
そもそも自由奔放な「わたし」を遊ばせて。
ペンでノートに書くその指先を見ていて。
キーボードを打つ指先。
押した通りに打たれる文字を見る。
ただただ、不思議な空間。
思考の中にいるわたしは、無限大な素晴らしい機能をもつ「人」であることに、今改めて驚いている。
ここまで、ドタバタと思考に振り回されていいる自分を演じて来て、あーだこーだとnoteに書いたり、話してきたが。。。。
イマココから見たら、なんと可愛いもんかと。
自分を知ることすらも、小さなことに感じる。
でも、スタートは「それ」。
古くて新しい「わたし」こんにちわ。
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