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ひとのせいにするのもありよ!ダメって思ってることって実はうそかもよ!

誰かのせい
環境のせい

これらは、してはいけない行為だろうか?
法律で決まってたりして(笑)きっとそんなことはないだろうという勝手な前提で進めていこう。

わたしの格言の中に
「なんでなんでは人のせい。」
「〇〇のせいはおかげとおんなじ」
とある。
なんでなんでと言っているときは、問題は外にあって、自分の中にはないと思い込んでいるとき。

おかげとおんなじは、振り返った時に大体のことは「あの時のおかげで、今こうなった」になるものだからってことが言いたいのだ。

そんなことなかったです?

わたしは、そんなことばかりだったといっぱい気づいてこの言葉を書にしました。

どちらも「そうしてはダメなこと」ではなくて、見つめる課題がそこなんだよってことなんだと思われるのだが、どうだろう?

それがそれが、そこまでフラットに考えられて書にまでしたためたのに、またしても自分を追い込んでいたことが判明したのだ。

この度、2023年3月に入るころ、「わたしはADHDだと自認」したことからゆっくりだけれど、気づいたことがこれだ。

わたしは思い込みなどしていない!→いや、勘違いだよ!
心の奥底に「ダメなことはダメ箱」なるものをこしらえやしないか?
色々とマイナス要素は手放せたって思ってる「つもり」じゃないの?

今のところこんな感じ。
どれも繋がっているのでそのまま書き進めていくことにするね、
っていうか、書き始めから軽く脱線しているような気もする(笑)
ま、いっか。


大きくは「だめだ」という思い込み。

人生の初めの頃、物心ついたころだと思われるが、大人にそれはダメなことと教わっていることの全部が、どうやら真実ではないと鈍感なわたしは気づき始めたのだ。

世の中の頭の柔らかい人たちはとっくに気づいてたのだろうが、わたしは54になってやっとここにたどり着いた。

きっとこれからたくさん出てくると思うが、まず一つ。

何かのせいにすること。

ずーっと何かのせいにすることはダメで、それは整ってない人がすることで、覚悟がなくて、責任を取らない人で、、、、と連なっていく。

(まさに、この文章が「人のせい」にしてません?)

自分を正当化するために何かのせいにしている人を作っているのかも。

確かに、54の誕生日にわたしがゲットしたのは「ADHDの自認」。
これはどっからどう見ても「わたしが一般的な言動をしてこなかったのは障害のせい」なんだから、仕方のないことだったんだ、許しやがれ!って言ってるようなもんだもんね。
きっとそう言ってる(笑)

でもね、本当に苦しかったのよ。
「母親業」の終わりを感じ始めた8年前、もしかして自分は「フリ」*をして生きてきたのではないか?このフリしているわたしはわたしじゃない、いったい私は誰なんだ?って、はったり気づいてしまったところから、自分を探し始めたのだ。この46才から54の今までの辛かったこと。
でもね、辛かったのは、道のりではなくて、人が普通に出来ていることが出来ないことに辛さがあったのね。
*周りの人から「あなたは明るくていつも元気でパワーがあって、行動力があって太陽みたいな人ね」と言われていたから、「そう見えているならそう演じればいいのね」という「フリ」。

パートに就職しても、ただ言われたことをやればいいのに、それが出来ない。
マニュアルがあって、それに従ってやればいいだけのことなのに、「自分」が邪魔してどうやっても出来ない、そんな自分が嫌いで、どうしてできないのだ!って自分を責めてしか「辞めたい」を表現できなかったこと。

責任なんて負わなくていいのよね、言われたことをやっているのだから。
わたしのせいじゃないし。
そこに「自分」は必要ないもの、笑って人形でいればいいのよ。
女優よわたし!くらいに思えばいいのよ。

しかし、それが出来ないのだ。

負えるはずのない見えない責任をなぜか気にする。

自分がADHDだと自認したからと言って、それが払しょくされて女優になれるかということとは別物。
あーそんな感じでよかったんだねーくらいの感じである。
逆に言うと、女優になれなかった自分を責める気持ちがなくなっているので、出来る人がすごーい、わたしには出来なかったのね~
だって、障害があって出来ないんだもん♪な感じである。

わたしにとって、ADHDであるということは「免罪符」でもあり「愛する可愛い自分の一部」なのだと思えたからではないかな。

ともかく、わたしは「脳の欠陥」と思えたことで、とってもハッピーになれたのだ。
すると、同時に「何かのせいにしている人」も許せるというか、いいんじゃんない?それでハッピーなら!って思えたのだ。

それもその人の人生だしって言葉で言ったり、話したりしていたけれど、どこか頭の隅で、アドバイスとかこうやればいいのに的なことを考えていて、「それがいけないのよ」を中心にその人を見ていたんだと思う。

でも、なんだか、本当の意味でどうでもよくなってきたのだから不思議だ。

結局自分が執着(フォーカス・気にしている)していることは自分に制限(うんと言うと厳罰)していることを自分がやれた時に相手への厳罰も緩和され、ゆるゆるになるんじゃないかなーって思う。

でも、自分の中の「ダメと思っていること」探しはなかなか気づけないのね、これも不思議な法則で。
なので、相手に「それはダメだ」と思っていることを取って出すとわかりやすいかも。

また、逆に「そんなこと気にしなくていいのに」って思ったことも、その一つかもしれない。

今回気づいたのは、「○○せいにしてもいいんじゃない」ってこと。
それにはちょっと前提があって、「そうやって何かのせいにして自分を守ってるんだよ」ってわかってやってるということなのね。

何せ、外側の「社会的な見え方」で自分を決めていたころは、何かのせいにすることで自分を責めることにつながっていたので、まず大事なことは「自分を知る」ことだったんだよね。

出来ないことは出来ないんだ、それはわたしのせいじゃなかったんだ、ADHDのせいだったんだって思えたことが始まりだったのね。

わたしはADHDな特質をもっているだけだ!
誇らし!
根本的に障害を特質ととらえているので、気づけてめっちゃハッピーになれたのだ。
世の中はどうやら違って。公表されてもどう反応していいかわからないらしい。

それらも教育のたまもので、さぼりが基本のわたしにちょうどいいみたいね。
そして、わたしの生育過程に、いわゆる「障害者」が周囲にいる環境だからだったのかもしれない。

そのひとはその人で、障害を持ってるその人ではないから。

自分にもなにかしらあるとは思っていたけれど、ここまでしっかりと自認したのは初めてで、向き合えたこと、受け入れれたことが素晴らしいと感じている。

どんな障害と言われることも。恥ずべきことなんかじゃなくて、
誇らしいことなんだよ。

ここで、やっと「それは個性じゃん!」が出てくるんじゃないかな。

まずは、
ひとのせいにするのもありよ!
ダメって思ってることって実はうそかもよ!

ってなお話でした。

誰かの気づきになりますように♪

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