「過ぎる」のはおよばがるが如し。
過ぎたるは及ばざるが如し
でしたかね。
ひっじょーになんだかなーと思う話を一つ二つ三つ。
昨日、ランチに出かけた場所が、座って見たらお子様が集うお店でした。
で、お隣に居合わせた夫婦➕1歳ちょっとくらいの女の子。
細かく書かないが
構い過ぎ
食べるって行為は本能的なもんで
食べたけりゃ食べるって。
汚されることとか?
親として?
手をかけてるってことを
知らしめるためか?
話し方も気に入らん。
なんで赤ちゃん言葉なん?
どんどんと子供の方が助長する。
にゃんにゃん言葉になって
かわいこぶっているようにしか見えん。
違う席の母と兄二人と妹との小さな兄弟たちは
大変自然に触れ合って、助け合って
母h余計なことは一切せず兄に任せて
それをまた妹がふんわりと受け止めて。。。
なんだこの違いは?
ま、どうでも良いのだが。
何が気に入らないってね
そのお隣の3人の家族と
わたしら夫婦とが
同席のように扱い増してね。
全く入店時間も違うのに、
提供するお前も首をフリフリどちらですか?的なそぶり。
最後のお膳を持ってきたあとは、うちの伝票を「ごゆっくり〜」と言いながら、お隣のテーブルに置きやがった。
いえ、別々ですけどーーーー
失礼しました!と若い店員が去った。
といことは、うちらは「敬老の日」扱いの祖父母に見えたのか?
ま、年齢は正しいが😐
もし、祖父母だったとしたら、子供を奪って手を尽くし食事をさせていたかもしれないね笑笑
いやー
ないない
自分たちが長女の第一子時代にどんな風だったのか客観的に映像で見てみたいなーと感じた瞬間だった。
父親が娘の隣に座り、覆いかぶさるように世話をする。
母親は娘との会話を「さも、全て知っているかのように」赤ちゃん言葉でおうむ返し。
うちらの子育ては「個人」対「個人」。
大人だからこどもだからの思想がない。
一人の「人」として対面することを基準としてきた。
叱ることは基本的に「命の危険」についてのみ。
所有という概念を持つとややこしくなるって事に
今書いていて気がついた。
肉体的に、物理的に、わたしのこどもですが、、、。
離れた瞬間に「他人」ですわ。
産んだ責任として「哺育」する義が発生するのでもちろん育ててきましたよ🤣
その時々も感じた
過剰関わり方
おかげで演じる者が出現。
その後見た光景がこれだ。
自転車で帰る途中、前をふらフラ走る2人の中学生くらいの女子。
今時の格好に綺麗な自転車。
その一人がM店のジュースカップを道の端っこでもなく、ど真ん中で「はい捨てまーす」みたいな素振りでスルッと手から落として捨てていった。
危うく、拾って声をかけて頭から被せてしまいそうだった、くらいに驚愕した。
もしこれが末路だとしたら?
貴方は親と貴方は親としてどう責任取りますか?
そんなことを言うつもりはないが🤣
自分の都合で接すると
こうこうなっていくような気がするなーと感じた出来事でした。
なにごとも
ほどほどにってことね。