当てがってるよね?とりあえず、与えとけ的な。なんだ。こっからじゃんか、人生って。
先程アップしたこの記事の少し前に気づいたことがある。
つぶやきにも書いたが、家の中にある物って、家具も洋服も何もかも「間に合わせ」で構成されいるのだと気づいた。
すると、今度は。
色んなことは「どうでもいい」となり、手放せないでいる物に対して「執着」が見え始め、、、、
そして今度は、日々「やってる事」の全てにたいして
当てがってるよね?
とりあえず、与えとけ的な。
と「暇でしょ?」「これでもやっとけ笑」的なものではないかいな?と感じたのだ。
わがままで、何やっても続かない。
日々非生産性しか生み出さない。
金になるようなことはしない、出来ない。
そう言う「セルフイメージ」でいるのだ。
だから、現実がそうなんだね。
ま、それでも生きてるんだ。
日々、家があって水道もガスも電気も使えて、食事にも困ってなくて、犬と暮らしてもいる。
なんの不自由もない。
のうのうと生きていられている。
全然悪くない。。。。
駄菓子菓子!
在るを見よう。
その入り口でもどこからでもアプローチすればいい。
でも、わたしにはなかなかだったな。
在るは見えて感じもする。
でも、それは「思考」でしかなかった。
文句言うわたしも「外側のわたし」が思うもので違和感を覚えながらも「在るをみよう」はただのツールでしかなかった。
当てがっているんだ。
文句もでるよね。
「これででも遊んでなよ」
「あんたにはこれくらいがちょうどいいさ」
そうやって
テキトーに
見繕って
そんなもんで
とりあえず
丁度よく
いい塩梅で
言いくるめられてたなって、憤りと諦めと入り混じった「何か」がため息ついたわ。
誰にとっていい塩梅なんだ?
とりあえずってなんだ?
そりゃそうだよね。
全く「わたしの中のわたしの意見」なんて1ミクロンも聞いてくれなかった。
ってか、存在自体「無かったこと」だったんだから、望みがわからないんだから「当てがう」しかなかったよね。
そりゃそーだよ。
ほんと、そーだ。
「どうしたい?」
並んで歩いてる「わたし」と意見や希望を出し合って一つ一つ積み上げていこう。
なんだ。
こっからじゃんか、人生って。