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山。

 視界が悪い。一寸先は深い霧。何も見えない。一体、どこを歩いているのだろうか。どんな山を登っているのかさえわからない。それが山であるかもわからない。そして、なぜ登るのかもわからない。なにを目指しているのかさえも。すべてがわからないから、歩くことに決めたのだ。それしかできることがなかった。歩くことは決めさせられたことでもあり、決まっていたことでもあった。根拠もなく登る。理由などどうでもよくなるほどの強い切迫感だけがあった。歩を進めれば、少なくともここではないどこかへ辿り着く。登り切れば、新たな風景が見えるかもしれない。視界が晴れて、麓を眼下に見下ろせるかもしれない。どんな山を登っていたのか、どこへ辿り着いたのか、明瞭な答えが欲しい。きっと、空はよく晴れて、空気は透き通って、全身で太陽の光を浴びて、大きな息を肺に蓄え、はき出すだろう。今は辛抱の時だ。しかし、目的地があるから人は歩くのに、何もわからないのに歩く自分が気持ち悪かった。それは初めての事であったし、行く先は目的を見つけられないほど巨大な何かであることはわかった。

 足元は沼、いつの間にこんなところを歩いているのか。先が見えないから地面の感触だけが頼りだった。天を見上げるより、足元に注意を向ける。それが唯一、確かな私の現実だ。天は私を悩ませる。見上げたところで、何も存在しない平坦な灰色のただの壁だ。何か手がかりを教えてくれるのはこの沼だけなのだ。ここを歩くことでしか現実を掴めなかった。足先を杖を突く様に振り下ろすと、汚泥はずぶずぶと杖を飲み込み、大粒の気泡を生みながら、ぶひっ、と何とも矮小な音を立てて、足にしがみついてくる。一旦踏み込むと中々抜け出せない。踵をあげ、地中へと空気の通り道を作り、一気に蹴り上げて、また杖を突く。途方もない道のりだ、山にこんな沼がある事さえ知らなかった。青々と美しい緑色をしていると思っていた。鼻歌でも歌いながら、鳥のさえずりを聞き、樹々を彩る小さな花々を慈しみながら歩くものだと思っていた。それなのに一向に霧は晴れない。不快な湿気が漂うだけだ。何をどう間違えたらこんな道を歩くのか。何も見えない、何もわからないから、深い霧に良い様に弄ばれる。もうどれほど歩いたろうか、眼前に突如現れた枝が肺に突き刺さり、嗚咽が漏れる。バサバサっと空気の摩擦音が聞こえた瞬間、大きな鳥らしきものが、私の頭頂の髪をいくらか掠め取っていく。この森に生き物がいるらしい。物音ひとつしない深い霧に孤独感を引き摺っていたが、当然だ、ここは山のはずなのだから、私一人であるはずがない。彼らには私が見えている、私の姿をずっと追っている。彼らは時折やってきて、身ぐるみを剥がすように私の持ち物をひとつひとつ奪っていった。私は何を失ったかにも気づかないほど、ただ歩くこと一心で、巨大な何かの忠実なる下僕だった。

 足元の感触が変わった。硬い、しっかりとした地盤だ。踏み応えのある感触が何だか嬉しい。どうやら沼は抜けたようだ。足にしがみつく汚泥が干からびて、ぽろぽろと剥がれ落ちていく。深い霧は相変わらずだが、少し周囲が明るくなった気がする。不要な力はもういらない、歩がどんどんと早まる。それは高揚する希望の表れだった。希望とは、私は何を成して、何を獲得したかを知る事だった。わからないということは、何か明確な形と成果を求めた。それが美しくとも汚らわしくも、もうどちらでもよかった。

 気づかぬうちに、自然と体力を取り戻していた。いつの間にか強靭な筋肉が体に備わり、研ぎ澄まされた私の体は、私の心に自信と誇りをもたらした。この先の道を登るにはもう十分だと思えた。深い森の生き物はきっとどこかで見ているのだろうけど、襲ってくることはなくなった。鋭利なくちばしをもった鳥がこめかみをかすめ取ろうとも、今なら軽くいなせることができる。この霧の先から何が現れても、もはや恐れや不安はない。もう頂上は近いかのもしれない。わからないことはわからないままだったけれども、登り始めた時の切迫感はとうに失せ、あるのは目的のない道をただ登ってきた事実だけだった。それは不思議なことに、私に深い充足感を与えていた。

 それはふとやってきた。未だ山の中腹に位置し、この先に続く長い道のり、いよいよこれから山頂を目指そうという時だった。突然視界が開け、平坦に開けた土地が顔をのぞかせた。空が広がり、遠くを一望できる。もしかして、もしかして、まさか、ここが頂上なのか。ゆっくり呼吸を整える。今までずっと足元しか見ていなかった。天を見上げると夢という煩悩にとらわれて、何をしたらいいかわからなくなるから、ただ土の感触だけを、手に取れる現実だけを頼りに生きてきた。それしか信じられるものがなかった。時に土をいたぶり、挫き、許し、愛してきた。苦難を乗り越えて、今、強靭な体と充足感に満ちた心がある。あれほど愚直なまでに頭を垂れてきた空を、今、私は遜ることなく見上げることができる。静かにゆっくりと見上げた先に、素っ裸の青い空があった。あまりに澄んだ紺碧の潔癖さは、私にここが山頂であることを自覚させた。遂に辿り着いたのだ。私は一つ、事を成した。歩いてきた道は自ら選択したものではなかったが、意を決して登り切った。しかし私はここが何処かを把握していない。どこに辿り着いたのかわからない、目的地がなかったからだ。私の登ってきた山は一体どんな山だったのだろうか、どんな風景が見えるだろうか、どんな世界があるのか、私は何を成したであろうか、明瞭な答えと成果が知りたい。景色が歩んだ道を教えてくれるだろう、成してきたことを、そして何を手に入れたのかを。私はきっとその風景に興奮を抑えられないだろう。あれだけの難所を通り抜けてきたのだから。静かに眼下へと視線を下ろした。あっ、と慌てた言葉が口唇でつんのめる。えっえっえっ、と自分でも意外なほど、安い感嘆詞がとめどもなく湧いてくる。現実を理解するのに時間がかかる。もしかしたらしばらくの間、私は言葉を失い、呆然と立ちすくんでいたかもしれない。鳥の細やかなさえずりが聞こえる、賑やかな街の喧騒が鼓膜で震える。眼下に見えた麓の景色は、驚くことにここから小一時間ほどで歩いて行けるほど、歩き始めた場所から、さして離れてはいなかったのだ。つまりは私の登った山は、目を疑いたくなるほどの低い山であった。私は一生を賭して登るような険しい山を登っていると思い込んでいた。そして実際、この山頂に辿り着くまでに20年かかった。厳しい道程だった、さぞかし立派な頂を冠した山なのだろう、そう思えたからこそ踏ん張れたのだ。そこから見える景色は、格別に違いないと。しかし、まるで丘の上にいるような展望に、私は言葉をなくし、体の力が抜けて、急に重くなった肩を落とした。一体、どういうことだ。まだ先を目指せる、まだこれからだ。しかし、ここはすでに山頂であるから、足元の現実や希望を与えてくれた、踏みしめるべき土地が、進むべき道がもうないのだ。もし、歩き始める前にこの山の頂きが見えていたら、私はこの山を登る選択をしていなかっただろう。すべてが深い霧に閉ざされ、何も見えず、ただ歩くことしかできなかった。それでもどこかへ辿り着くはずと彷徨った。わからないことは罪深い。山の下僕は痛々しい。遥か遠方に、高くそびえる山々が見える。もっと高い山もあったのだ。あの山が20年前に見えていたら、今頃私はあの山の中腹で一息入れているときであろう。これから立ちはだかる頂への道を前に、新たな気力を捻出していたであろう。あの山から見える景色はどんなだろう、天に近く、神聖な権威を纏った場所なのだろうか。空気も薄く、体も凍えそうなのだろうか、すべては想像に過ぎない。私にはその山をもう登ることができない。私が人生を賭して登った山はここがピークだったのだ。しかし、今、深い霧に苛まれて、獣道を歩いたその事実を、私は誇りに思う。決して簡単な道のりではなかった。私にはこの低い山が人生を賭けて登る山だったのだ。私の道程を熟知しているこの身体と心を愛する。それができるのは私しかいないのだから。もうそれで十分だと思えた。私が欲しかったのは成功や権威、お金だったかもしれないが、この山を登り切りって得たものは自信と誇りだった。それが何より豊かに思えた。

 この低山の頂の先に、緩やかに下る尾根が二つある。一つの道には、やや下ったところに開けた、別の頂きがはっきり見えた。大して遠くもない、すぐに辿り着けそうだ。もう見えないものはない、わからないことはない。どんな山であるかを見通せる。このままはっきりと目的のある道を歩くと、私はあの場所で小さな人生の成功を得るだろう。小さな山小屋があって、暖を取り、饅頭とおでんが食べられる。お疲れ様、今日もいい天気ですね、と声をかけてくれる人たちがいる。賑やかであたたかそうだ。ここで私の生涯を賭けた登山を終えるのもありかもしれない。あの道は大変だったねぇ、などと振り返りながら、現実を自覚し、受け入れ、慈しみながら過ごすのもありかもしれない。穏やかな老後、私の65歳の姿だ。もう一つの道に、白い更地が広がっている。空と更地の地平がほとんどわからないくらいの、真っ白な世界が眼前にある。何も存在しない。青い空も、瞬く太陽の光も、生い茂る樹々も、鳥のさえずりも、美しい花々も、深い霧も、沼も、不思議な生き物も、小屋も、饅頭も、おでんもない。何もない。何もないからどんな世界かわからない。山かどうかもわからない。ただ下っている道であることだけは把握できた。私は引き寄せられるように、純白の世界に歩を進めていた。その世界は20年前に見た深い霧の世界にも何だか少し似ているが、明らかに異なるものであると感じられた。この道が正しいのか、間違っているのか、わからない。また煩悩にとらわれてしまいそうな白い天が見える。天はいつだって、夢や可能性というものをむき出しで強要してくる。その言葉に私はずっと翻弄され、彷徨い続けてきた。不安や恐れがまた蘇りそうになるけれども、落ち着かせてくれたのは自信と誇りだった。私にはできることがあるはずだ。20年前に何も持たずに迷った、山の下僕ではもうない。あの獣道を歩いてきたという事実があるはずだ。今、信じられるのは土の手応え、足元の現実ではない、私の内なる存在だ。それしか頼るものはない。白い世界へ、ずさり、ずさりと私の身体が引っ張られていく。私は白い世界へいとも容易く、磁石の様にすとんっと落とされた。自分で選んだような気もするし、強制的に執行された気もするし、あらかじめ決まっていたような気もする。抵抗する意思は全くない。今、眼前に広がる白い風景は、また何もかもわからない世界ではあるけれども、ここでどう歩くかは自由なのだと思った。そして道は、この身体と心が知っていると思えた。どこに辿り着くかなんてもうどうでもよくなった。おそらく歩き始めれば風景が後ろに続くように生まれていくのだろう、そんな気がした。

 私はいい年をして、何も持っていない男だ。いい年をしてここに立っている私を、深い愛情をもって笑ってしまう。本当に何もない、散々いろんなことしてきたはずなのに何もないってどういうことなのだろうか、それと同時にまた、何一つ不足感のない充実した心境がある。何でも持っている気もまたしてくる。不思議な気分だ。


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